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星田妙見宮~家康ひそみの籔~最終回 [大阪府交野市]

星田妙見宮の急な石段を再び降りてきて 妙見河原の北側の妙見坂小学校の裏籔に意外な石碑が建っております。

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金網に囲まれた竹やぶの中にひっそりとあったのは 

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家康 ひそみの籔

天正10年(1582) 織田信長が本能寺の変で 明智光秀に攻められ 自害した時、徳川家康は 少人数の近臣のみで舶来文化豊かな 大坂の堺に滞在していた。

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信長死すの 一報を受けた 家康は一路三河に帰る途中、この星田に身を隠したという。

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家康一行は星田妙見宮神主の和久田家にこの藪から案内され、星田の村長の平井氏に相談し、山城方面に抜ける道に精通している農民2人をつけてもらい 難を逃れたのです。

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妙見河原の桜並木に別れを告げて 古い町並みの残る道を歩きだします。

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側の水の流が情緒ありますね。

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星田の平井家は そもそも 三河の出であるといういわれもあり 家康に味方したと思われます。



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平井家門

慶長20年(1615)、家康は、大坂夏の陣に赴く際、星田の平井家に宿泊し、そこから出陣しました。

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ともすれば見逃してしますほどの 道案内の矢印・・・

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細い裏路道を抜けると 立派な石碑が たっております。

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大坂城の大番頭でもあった領主 市橋長昭は星田村を訪れ、神祖、家康が宿営した話を聞き、祖先である 市橋長勝を顕彰するために 石碑を建てることを 星田村庄屋三郎右衛門(平井貞豊)に命じました。

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碑文は長昭が撰し、書は福山城主 阿部正精(まさきよ)によったもので、文化3年3月10日(1806)に建立されました。

家康は 大坂夏の陣に勝利し、ついに戦国の世は終わりを告げたのです。

その最後の戦いの前に この星田の地に 家康が陣を構えていたとは思いもよりませんでしたね。

日本史における 画期的な出来事に かかわることが この地にあったんですね。

ある歴史の側面を見たような 深い感慨に 浸りながら また、古い町並みを歩いて 星田の駅を目指しました。


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どうも 時たまの 更新で やっとの事で 妙見さんの 記事も今回で 終わりです。

そうこうしている内に 桜の季節も終わりをつげ やがて初夏の季節が訪れようとしています。

東北の震災で被災した方たちは これから暑い季節に向けて 大変だと思いますが 少しでも早い復興を願っています。

これからも こぐまねは ぶらり町歩きを続けていきます。 見慣れた町や 見過した街かど、歴史のある町等をご照会できればと思います。

どうぞ今後とも よろしくお願いします。。¥^^
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