西長堀川の幻の橋を訪ねて ①~伯楽橋・玉造橋・鰹座橋 [大阪市西区]
昭和46年(1971)に埋め立てられてしまった西長堀川。江戸時代には木津川と船場、島之内、そして大阪湾を繋ぐ、大坂一の大動脈の運河ともいえる存在でした。木材市場や三菱発祥之地など有名な史跡が沢山ありますね。
~玉造橋から伯楽橋、土佐稲荷神社をめざして~
いつものように地下鉄 四つ橋線に乗って 長堀鶴見緑地線に乗り換えて、西長堀駅に降り立ちます。
目の前には すぐに 道標がありました。西に歩くこと50メートルほどで 広い交差点にでます。
玉造橋
玉造橋がかつてあった交差点。17世紀の半ばには大坂城・玉造口の与力・同心が増員され この地に移住せられたためにこの名が付いたらしいです。
またまた50メートルほど西へ歩くと 伯楽橋があります。
伯楽橋
明治41年(1908)に市電東西線開通にあわせて架橋されましたが 西詰に開かれた 松島遊郭の圧力もあって昭和15年(1940)まで、市電専用橋で歩行者は通れませんでした。
伯楽とは あの「荘子」に登場する中国・周代にいた馬の良し悪しが見分けられる名人のこと。そうです。そこから牛馬の売買・仲買人、病気を治す医者などのことを 指す言葉となったそうです。
名伯楽などという風に つかわれていますね。
木津川が日本全国から集まる物産の輸送拠点になって、荷馬車の業者が多く集まり、そのような橋の名前になったようです。
再び、玉造橋に戻り すこし南の方に入ると 大きな稲荷神社が あります。かつては土佐藩蔵屋敷があり、米穀、材木、鰹節、砂糖など土佐の物産物が多く扱われていたそうです。
古くから屋敷内には稲荷神社がありましたが 享保2年(1717)に藩主・山内豊隆が社殿を造営しました。江戸時代には桜の名所として有名でした。
明治2年(1869)、岩崎彌太郎が土佐藩のお手先商法で「開成館貸殖局大阪出張所」の幹事心得となります。汽船や武器の輸入に活躍し、翌年、廃藩置県が行われるに先立って、後藤象二郎や板垣退助らと協議して、長堀川北岸に事務所を開設、ついに藩から独立する形で「九十九商会」を設立します。
土佐藩の負債を肩代わりする条件で 船舶3隻を入手し、海運業を始めます。一旦は 三川商会となり、明治6年(1873)3月、三菱商会と改称され、これが後に 三井・住友と並ぶ 日本三大財閥のひとつ、三菱財閥の起源です。
土佐稲荷神社は三菱発祥の地であり、神社のいたるところに その史跡が残されています。
大鳥居から本殿までも ずいぶん距離がありますね。
稲荷神社の 特徴の きつねの石像に混じって 実にたくさんの狛犬様が いらっしゃいました。
こちらの狛犬様など いかにも彌太郎に似ておるではありませんか。
狐も 牙をむいて 空を見上げています。
彌太郎は、土佐藩主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋をあわせて社章「スリーダイヤ」をつくりました。土佐稲荷神社の社殿の屋根の神紋のなかにもスリーダイヤが入っています。
どうですか?見えますでしょうか。
ここにも 有りましたよ。
境内には 岩崎彌太郎邸宅跡の碑があり、神社を囲む玉垣などは三菱系列の会社が寄進しているのだそうです。
土佐稲荷神社
住所】大阪市西区北堀江4-9-7【最寄駅】地下鉄千日前線西長堀駅下車 徒歩5分
やがて 稲荷神社をあとにして 大通りにでました。ここも有名な橋の名前が付いた交差点でした。
鰹座橋
鰹座橋は元和8年(1622)の長堀川開削から明暦元年(1655)までの間、架設され、鰹節を売買する鰹座があったことから名前がつきました。
江戸時代には この地にあった 土佐藩蔵屋敷を中心に 、土佐廻船が海産物や材木などを大量に陸揚げして、盛況を極めたそうです。
今回歩いた コースです。
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次回は 西長堀を東に進み さらに 昔の大坂商人のルーツを探り、かつてあった 幻の四つの橋を訪ねます。
~玉造橋から伯楽橋、土佐稲荷神社をめざして~
いつものように地下鉄 四つ橋線に乗って 長堀鶴見緑地線に乗り換えて、西長堀駅に降り立ちます。
目の前には すぐに 道標がありました。西に歩くこと50メートルほどで 広い交差点にでます。
玉造橋
玉造橋がかつてあった交差点。17世紀の半ばには大坂城・玉造口の与力・同心が増員され この地に移住せられたためにこの名が付いたらしいです。
またまた50メートルほど西へ歩くと 伯楽橋があります。
伯楽橋
明治41年(1908)に市電東西線開通にあわせて架橋されましたが 西詰に開かれた 松島遊郭の圧力もあって昭和15年(1940)まで、市電専用橋で歩行者は通れませんでした。
伯楽とは あの「荘子」に登場する中国・周代にいた馬の良し悪しが見分けられる名人のこと。そうです。そこから牛馬の売買・仲買人、病気を治す医者などのことを 指す言葉となったそうです。
名伯楽などという風に つかわれていますね。
木津川が日本全国から集まる物産の輸送拠点になって、荷馬車の業者が多く集まり、そのような橋の名前になったようです。
再び、玉造橋に戻り すこし南の方に入ると 大きな稲荷神社が あります。かつては土佐藩蔵屋敷があり、米穀、材木、鰹節、砂糖など土佐の物産物が多く扱われていたそうです。
古くから屋敷内には稲荷神社がありましたが 享保2年(1717)に藩主・山内豊隆が社殿を造営しました。江戸時代には桜の名所として有名でした。
明治2年(1869)、岩崎彌太郎が土佐藩のお手先商法で「開成館貸殖局大阪出張所」の幹事心得となります。汽船や武器の輸入に活躍し、翌年、廃藩置県が行われるに先立って、後藤象二郎や板垣退助らと協議して、長堀川北岸に事務所を開設、ついに藩から独立する形で「九十九商会」を設立します。
土佐藩の負債を肩代わりする条件で 船舶3隻を入手し、海運業を始めます。一旦は 三川商会となり、明治6年(1873)3月、三菱商会と改称され、これが後に 三井・住友と並ぶ 日本三大財閥のひとつ、三菱財閥の起源です。
土佐稲荷神社は三菱発祥の地であり、神社のいたるところに その史跡が残されています。
大鳥居から本殿までも ずいぶん距離がありますね。
稲荷神社の 特徴の きつねの石像に混じって 実にたくさんの狛犬様が いらっしゃいました。
こちらの狛犬様など いかにも彌太郎に似ておるではありませんか。
狐も 牙をむいて 空を見上げています。
彌太郎は、土佐藩主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋をあわせて社章「スリーダイヤ」をつくりました。土佐稲荷神社の社殿の屋根の神紋のなかにもスリーダイヤが入っています。
どうですか?見えますでしょうか。
ここにも 有りましたよ。
境内には 岩崎彌太郎邸宅跡の碑があり、神社を囲む玉垣などは三菱系列の会社が寄進しているのだそうです。
土佐稲荷神社
住所】大阪市西区北堀江4-9-7【最寄駅】地下鉄千日前線西長堀駅下車 徒歩5分
やがて 稲荷神社をあとにして 大通りにでました。ここも有名な橋の名前が付いた交差点でした。
鰹座橋
鰹座橋は元和8年(1622)の長堀川開削から明暦元年(1655)までの間、架設され、鰹節を売買する鰹座があったことから名前がつきました。
江戸時代には この地にあった 土佐藩蔵屋敷を中心に 、土佐廻船が海産物や材木などを大量に陸揚げして、盛況を極めたそうです。
今回歩いた コースです。
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次回は 西長堀を東に進み さらに 昔の大坂商人のルーツを探り、かつてあった 幻の四つの橋を訪ねます。
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