かつて母なる川に悲恋の南無網島があった ①~太閤園 [大阪市都島区]
今日からは 大阪市の都島区に赴き、大川(旧淀川)界隈を散策して 川べりの公園をゆくとしましょう。
JR東西線に乗り、大阪城北詰駅で下車、出口をあがると左に大きな建物が見えます。
太閤園
かつては大長寺の敷地で、明治42年(1909)に藤田財閥の創始者・藤田伝三郎(1841~1912)の邸宅・東邸となります。藤田伝三郎は長州藩出身で明治になり西南戦争がおこると軍靴・軍服・食料の納入、人夫の斡旋などで巨万の富を築きました。
五代友厚、松本重太郎、田中市兵衛らと共に関西財界の発展の尽力し、南海電鉄、関西電力、三和銀行など多くの企業の礎をつくりました。
茶道をたしなみ、多くの美術品を蒐集し、慈善事業にも力を注ぎました。その功績で民間人初の男爵となっています。
太閤園の正面玄関あたりです。この地は過去の戦火をまぬがれていた藤田邸東邸を、高級宴会場、国際社交場として昭和34年(1959)にオープンしたものです。
木造瓦葺の門構えがかつてここがお寺であったことを思い出させます。
中庭に植えられた大きな樹木。
料亭・淀川亭を真横に眺めます。
全室から中庭を眺められる個室でいただく数々のお料理はさぞ格別でしょう。
太閤園にはガーデンチャペルもあり シーズンには沢山のカップルが祝福を受けます。
さて、太閤園をでて、右に進むと簡素な宿舎があります。
松花堂
今は閉館となっておりなかには入れませんが、ここは桜宮職員会館です。
ここには、伝説の音楽家・貴志康一(1909~1937)の生誕の地碑があります。
貴志康一はベルリンに留学し 指揮を学び、ベルリン・フィルで自作の交響曲「仏陀」などを指揮した方です。
残念ながら28才の若さで心臓麻痺で亡くなってしまいました。
ところで 康一の祖父で、繊維問屋で財をなした貴志彌右衛門が、石清水八幡宮の茶室・松花堂をモデルとして建てたのが松花堂です。彌右衛門は本吉兆の料理人・湯木貞一に命じて料理の香りが別の料理に移らないように、弁当箱を十文字に仕切り、ふたをかぶせた会席弁当を作らせたのが松花堂弁当のはじまりです。
次に訪れようと藤田美術館や藤田邸跡公園に向かうつもりで 少し行き過ぎて 白い公舎を見つけました
大阪市公館
ここも藤田伝三郎の西邸跡です。大阪市公館は昭和39年(1959)秋の日米市長会談が開催されたときに、迎賓館として建造されました。本館、庭園を含めると約1.4ヘクタールの敷地で、四季折々の大川の景色も眺められるそうです。
この日も 何かしらのお客様がお越しになられたと見え、玄関口で丁寧におじぎをしてお見送りする職員の様子が有りました。
次回は 藤田美術館や庭園を眺め、桜ノ宮公園を北上して、大川に架かる橋や 川沿いに立つ 施設を紹介しますね。。¥^^
JR東西線に乗り、大阪城北詰駅で下車、出口をあがると左に大きな建物が見えます。
太閤園
かつては大長寺の敷地で、明治42年(1909)に藤田財閥の創始者・藤田伝三郎(1841~1912)の邸宅・東邸となります。藤田伝三郎は長州藩出身で明治になり西南戦争がおこると軍靴・軍服・食料の納入、人夫の斡旋などで巨万の富を築きました。
五代友厚、松本重太郎、田中市兵衛らと共に関西財界の発展の尽力し、南海電鉄、関西電力、三和銀行など多くの企業の礎をつくりました。
茶道をたしなみ、多くの美術品を蒐集し、慈善事業にも力を注ぎました。その功績で民間人初の男爵となっています。
太閤園の正面玄関あたりです。この地は過去の戦火をまぬがれていた藤田邸東邸を、高級宴会場、国際社交場として昭和34年(1959)にオープンしたものです。
木造瓦葺の門構えがかつてここがお寺であったことを思い出させます。
中庭に植えられた大きな樹木。
料亭・淀川亭を真横に眺めます。
全室から中庭を眺められる個室でいただく数々のお料理はさぞ格別でしょう。
太閤園にはガーデンチャペルもあり シーズンには沢山のカップルが祝福を受けます。
さて、太閤園をでて、右に進むと簡素な宿舎があります。
松花堂
今は閉館となっておりなかには入れませんが、ここは桜宮職員会館です。
ここには、伝説の音楽家・貴志康一(1909~1937)の生誕の地碑があります。
貴志康一はベルリンに留学し 指揮を学び、ベルリン・フィルで自作の交響曲「仏陀」などを指揮した方です。
残念ながら28才の若さで心臓麻痺で亡くなってしまいました。
ところで 康一の祖父で、繊維問屋で財をなした貴志彌右衛門が、石清水八幡宮の茶室・松花堂をモデルとして建てたのが松花堂です。彌右衛門は本吉兆の料理人・湯木貞一に命じて料理の香りが別の料理に移らないように、弁当箱を十文字に仕切り、ふたをかぶせた会席弁当を作らせたのが松花堂弁当のはじまりです。
次に訪れようと藤田美術館や藤田邸跡公園に向かうつもりで 少し行き過ぎて 白い公舎を見つけました
大阪市公館
ここも藤田伝三郎の西邸跡です。大阪市公館は昭和39年(1959)秋の日米市長会談が開催されたときに、迎賓館として建造されました。本館、庭園を含めると約1.4ヘクタールの敷地で、四季折々の大川の景色も眺められるそうです。
この日も 何かしらのお客様がお越しになられたと見え、玄関口で丁寧におじぎをしてお見送りする職員の様子が有りました。
次回は 藤田美術館や庭園を眺め、桜ノ宮公園を北上して、大川に架かる橋や 川沿いに立つ 施設を紹介しますね。。¥^^
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