近代大阪発展の地は西へ ①~靭公園 [大阪市西区]
明治7年(1874)、今の大阪市西区江之子島にルネッサンス様式の2階建て煉瓦造りの初代大阪府庁舎が竣工します。
明治になって西欧の文化や制度が一気に移入してきて、大きな港を持つ大阪は西に向かってさらなる発展を遂げると予想されました。
ここを当時の大阪庶民は「江之子島政府」と呼んだそうです。
昼の憩いの公園 靭公園を訪ねて
大阪市営地下鉄 本町駅に降り立ちます。
さっそく向かいの交差点に石碑を見つけます。
信濃橋洋画研究所
大阪に香り高い文化を根づかせようと、大阪出身の洋画家小出楢重(こいでならしげ)・国枝金三・鍋井克之(なべいかつゆき)らが中心になって、大正13年に信濃橋洋画研究所が開設されました。
多くの専門画家を輩出した後、研究所は昭和6年中之島に移り、中之島洋画研究所と改称したが、昭和19年戦争激化に伴い閉鎖されました。その時代の大阪の近代洋画界の発展に大きく寄与しました。
本町通りを西に進んでいきましょう。
このあたりはビジネス街で 沢山の商社や倉庫が立ち並び 沢山の会社員が行き交っています。
そんなビルの一階に大きな立派な碑があります。
大塩平八郎終焉の地碑
大塩平八郎は江戸時代後期 大坂町奉行所の与力であり、陽明学者としても有名で、当時の政治姿勢を問い、民衆に師父と慕われる存在でした。
天保8年(1837)2月19日に門人の武士・農民を率い飢饉に苦しむ民を救い、政治腐敗の起源を絶とうとして決起しました。
大塩親子は乱後、この地の近く靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏しておりましたが、同年3月27日幕吏の包囲の中、ついに自焼して果てたとされます。
1997年 大塩事件研究会 による碑は たいへん立派な黒塗り石碑でした。
靭幼稚園の極彩色豊かな壁画を横目に 靭公園へと向かいますね。
うっそうと木々が生い茂っており ここがかつて靭塩干魚市場の跡地であったとは感じさせないでしょう。
太平洋戦争後、占領軍に接収され
、昭和27年(1952)の講和条約締結により大阪市に返還され、公園と姿を変えて 整備が進みました。
ところどころの オブジェが面白いですね。これは何かの花の形を現しているんでしょうか。
公園内には バラ園と コスモス園がありましたよ。両方とも満開ですね。
公園内の水が流れ落ちる 噴水あたりの銅像です。
不思議なオブジェの前でお弁当を広げる家族連れも多いですね。
本当にこの日は お天気が良くて ちょうどお昼時でもあり 近くのサラリーマンや OLがお弁当持参で休憩してます。
ちょっと 公園を外れると こんな建物もあります。
大阪科学技術館
「科学技術でひらこう、地球のあした」がテーマの科学技術博物館。エレクトロニクス・バイオテクノロジーなどの地球に優しい技術も紹介します。ちなみに敷地は 大阪の生んだ 財閥 五代友厚の屋敷跡です。
さて、裏通りに入ると たくさん レストランや めし屋が 立ち並んでおります。
ちょっとレトロな雰囲気のお店が たくさんありますね。
そんな中にも 大正2年創業のお寿司屋さんもあります。「みやこ」
大漁旗が翻っておるようです。
「飛行船スタイル」 かつて飛行場があったからでしょうか。
再び 公園にもどり 辺を見回すと また新たな石碑を見つけました。
梶井基次郎碑、飛行場跡説明碑
梶井基次郎は、明治34年(1901)、旧西区土佐堀通5丁目生まれで、旧制北野中学校在学中に靭に住んでいました。東京帝大在学中 同人誌「青空」を創刊、代表作「檸檬」を発表します。
戦後、米軍により、小型機発着空港として利用されたことの説明碑もあります。
公園にはこんな ハットさせられるような 家族をかたどった オブジェがあるんですよ。
あははっ・・・ 思わず笑ってしましました。 パンダさんですね。実によく手入れされておりました。
さて、さらに公園の西に向けて移動します。靭公園と言えば テニスコートですね。
次回は 国際大会も開かれる うつぼテニスセンターから 世界スーパージュニアテニス2011の様子から 大阪一の魚市場であった 雑喉場(ざこば)から 江之子島方面を散策します。。¥^^
明治になって西欧の文化や制度が一気に移入してきて、大きな港を持つ大阪は西に向かってさらなる発展を遂げると予想されました。
ここを当時の大阪庶民は「江之子島政府」と呼んだそうです。
昼の憩いの公園 靭公園を訪ねて
大阪市営地下鉄 本町駅に降り立ちます。
さっそく向かいの交差点に石碑を見つけます。
信濃橋洋画研究所
大阪に香り高い文化を根づかせようと、大阪出身の洋画家小出楢重(こいでならしげ)・国枝金三・鍋井克之(なべいかつゆき)らが中心になって、大正13年に信濃橋洋画研究所が開設されました。
多くの専門画家を輩出した後、研究所は昭和6年中之島に移り、中之島洋画研究所と改称したが、昭和19年戦争激化に伴い閉鎖されました。その時代の大阪の近代洋画界の発展に大きく寄与しました。
本町通りを西に進んでいきましょう。
このあたりはビジネス街で 沢山の商社や倉庫が立ち並び 沢山の会社員が行き交っています。
そんなビルの一階に大きな立派な碑があります。
大塩平八郎終焉の地碑
大塩平八郎は江戸時代後期 大坂町奉行所の与力であり、陽明学者としても有名で、当時の政治姿勢を問い、民衆に師父と慕われる存在でした。
天保8年(1837)2月19日に門人の武士・農民を率い飢饉に苦しむ民を救い、政治腐敗の起源を絶とうとして決起しました。
大塩親子は乱後、この地の近く靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏しておりましたが、同年3月27日幕吏の包囲の中、ついに自焼して果てたとされます。
1997年 大塩事件研究会 による碑は たいへん立派な黒塗り石碑でした。
靭幼稚園の極彩色豊かな壁画を横目に 靭公園へと向かいますね。
うっそうと木々が生い茂っており ここがかつて靭塩干魚市場の跡地であったとは感じさせないでしょう。
太平洋戦争後、占領軍に接収され
、昭和27年(1952)の講和条約締結により大阪市に返還され、公園と姿を変えて 整備が進みました。
ところどころの オブジェが面白いですね。これは何かの花の形を現しているんでしょうか。
公園内には バラ園と コスモス園がありましたよ。両方とも満開ですね。
公園内の水が流れ落ちる 噴水あたりの銅像です。
不思議なオブジェの前でお弁当を広げる家族連れも多いですね。
本当にこの日は お天気が良くて ちょうどお昼時でもあり 近くのサラリーマンや OLがお弁当持参で休憩してます。
ちょっと 公園を外れると こんな建物もあります。
大阪科学技術館
「科学技術でひらこう、地球のあした」がテーマの科学技術博物館。エレクトロニクス・バイオテクノロジーなどの地球に優しい技術も紹介します。ちなみに敷地は 大阪の生んだ 財閥 五代友厚の屋敷跡です。
さて、裏通りに入ると たくさん レストランや めし屋が 立ち並んでおります。
ちょっとレトロな雰囲気のお店が たくさんありますね。
そんな中にも 大正2年創業のお寿司屋さんもあります。「みやこ」
大漁旗が翻っておるようです。
「飛行船スタイル」 かつて飛行場があったからでしょうか。
再び 公園にもどり 辺を見回すと また新たな石碑を見つけました。
梶井基次郎碑、飛行場跡説明碑
梶井基次郎は、明治34年(1901)、旧西区土佐堀通5丁目生まれで、旧制北野中学校在学中に靭に住んでいました。東京帝大在学中 同人誌「青空」を創刊、代表作「檸檬」を発表します。
戦後、米軍により、小型機発着空港として利用されたことの説明碑もあります。
公園にはこんな ハットさせられるような 家族をかたどった オブジェがあるんですよ。
あははっ・・・ 思わず笑ってしましました。 パンダさんですね。実によく手入れされておりました。
さて、さらに公園の西に向けて移動します。靭公園と言えば テニスコートですね。
次回は 国際大会も開かれる うつぼテニスセンターから 世界スーパージュニアテニス2011の様子から 大阪一の魚市場であった 雑喉場(ざこば)から 江之子島方面を散策します。。¥^^
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