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先賢景仰!時代の最先端駆け抜けたまち ③~江戸堀 [大阪市西区]

江戸堀界隈を散策して 土佐堀川から一路 東に戻っていくこぐまねです。

薩摩藩蔵屋敷跡

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西区の一体は江戸時代交通の便が良かったため中之島界隈には諸藩の蔵屋敷が集中していました。薩摩藩もここで代々堀を開削して薩摩藩定問屋として活躍しています。明治になり鳥羽伏見の戦いで、幕府から蔵屋敷の引渡しを拒否したため、陸奥会津藩が攻撃を仕掛けてくることを聞いて、自ら火を放って焼失しました。

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このあたりは じつに高層ビルが建ち上がっています。

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このビルの中に 大村益次郎の寓居跡が残されていました。

大村益次郎は幕末に蘭学・医学はもとより西洋兵学に通じた軍政家で 若くして緒方洪庵の適塾で学び、塾頭にまでなった方です。江戸堀の倉敷屋作衛門の屋敷に下宿し、かの長州の高杉晋作らを指導して長州征伐や戊辰戦争を指揮し、新政府軍の勝利に貢献しました。明治新政府の役職につくも 明治2年(1869)に京都で国民皆兵反対派の刺客に襲われ、大阪病院に入院するも右足切断の手術の後、46歳の若さで没しました。

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江戸堀のまちにはこんなオブジェも見られます。

次に訪れたのは レンガ造りの 古めかしい建物

日本基督教団大阪教会

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米国宣教師ゴルドン氏の伝道で明治になって創立された梅本町公会が前身です。平成16年には創立130周年を迎えた日本最古といっても良いプロテスタント教会です。現在の建物は大正11年(1922)に建造され、ロマネスク様式のクラシックな設計で赤レンガが引き立つアーチや尖塔、切妻屋敷、美しいバラ窓などの見所がある屋敷です。阪神淡路大震災で半壊しましたが8ヵ月後には見事、復興し 今では国の登録文化財になっています。

さて、ここいらで お昼時ともあって 沢山の食事どころが 開店してます。

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吾輩もここいらで お昼タイムと行きたいところですが 次の予定があって やむなく この地をあとにすることにします。
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もう一度 肥後橋商店街まで戻り 今回の まち歩きは おしまいですね。

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ここまで 毎回ご覧いただき ありがとうございました。

拙い文章と もうひとつの 写真ばかりで 大阪の中心地 土佐堀界隈の雰囲気が伝わったでしょうか?

これからも 近くに立ち寄ることがあれば また、ぶらぶらしてみたいですね。。¥^^

先賢景仰!時代の最先端駆け抜けたまち ②~江戸堀 [大阪市西区]

前回に続き 江戸堀界隈を歩き、時代を駆け抜けた先賢の人たちの足跡に触れるまち歩きです。

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江戸堀町あたりから西に歩いていくと京町堀2丁目から北に進むとまもなく公園が見えてきます。

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公園の角に 歴史的な石碑があります。

中天游邸跡

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中天游は 23才より江戸で古賀精里に儒学を、大槻玄沢の芝蘭堂で蘭方医学を学び、京都で芝蘭堂四天王のひとり、海上随鷗(かいがみずいおう)から教えを受け、35歳の文化14年(1817)この地で開業しました。
医学の心得もあり、女医として有名であった妻 さだとともに医業を開くも蘭学の道をつきつめ、エレキテルの研究家橋本宗吉の絲漢堂(しかんどう)に出入りして私塾・思々斎塾を開きました。のちに適塾を開いた緒方洪庵も江戸に出るまで5年間、中之島の備中足守藩の蔵屋敷から、思々斎塾に通っていたといわれてます。

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公園の名前が 今では 花之井公園となっていますが 公園を通り過ぎると中学校が見えます。

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この中学校の中にかつて 江戸堀川にかかっていた橋の跡が残されていました。

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花之井橋跡

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花之井橋は堂島大橋から芦原橋までの市電開通に際し、大正9年(1920)に江戸堀川の第6橋として架けられたもので、橋の柱が残されていました。

また、花之井中学校の校庭はかつて江戸時代に石見津和野藩の蔵屋敷があったところで、ここの井戸の水は当時大坂でも有数の良質として知られ、慶応4年(1868)に明治天皇が大坂北御堂を行在所としていた際は、この井戸水をお使いになられていました。

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「此花之井」の名が与えられて以来、大坂の名水として評判になり、明治42年(1909)5月、有志によりこの碑が建てられ、昭和になってもう一つ石碑が建てられました。

やがて 北に抜けると 大通りになり 真向かいに 大きな倉庫が見えます。

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三井倉庫の大きな建物を右目に見て あみだ池筋に向かって歩いてみます。

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ちょうど あみだ池筋の角に 草の中の埋もれそうな 石碑があったのです。

宮武外骨ゆかりの地碑

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宮武外骨は幼名を亀四郎といい、「亀」が 外骨内肉の生き物であることからちなんで、外骨と改名しました。公権力に反骨の精神で挑み、入獄4回、罰金・発禁などに至っては29回にもおよびました。当初は東京を拠点にしていましたが明治33年(1900)に大阪に移り、生地の香川県小野村をもじった小野村夫の名前で 行政の腐敗を面白おかしく揶揄した「滑稽新聞」を発行します。滑稽新聞社は京町堀4丁目からここ江戸堀南通4丁目に移転。廃刊になる明治42年(1909)まで毎月2回発行されました。

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外骨は東京帝国大学内に明治雑誌新聞文庫などを創設し、書誌収集の面で、大きな功績も残しています。

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さて、あみだ池筋を北に行くと 土佐堀川に行き着きますが その途中に 見過ごしてしまうような 史跡があるのです。

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これは 「大阪上等裁判所跡」で明治5年(1872)に司法官制による司法裁判所を改名。明治8年(1875)に全国で4ヶ所設置されました。その管轄区域は大阪・京都のみならず滋賀・石川・奈良・和歌山・堺・兵庫・播磨・岡山などの諸県に及びました。「明治天皇聖濁・上等裁判所址」の碑は 大正14年(1925)5月、大阪市青年連合団が建てました。

ひとまず 土佐堀橋に到着しました。

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橋の上から 土佐堀川を眺めつつ 大阪市内の高層ビルを目の当たりにすると 江戸時代からの時間の流れがひしひしと感じられますね。

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この日は 暖かで 空と雲のコントラストが鮮やかですね。次回は残りの行程を歩いてみます。。¥^^

先賢景仰!時代の最先端駆け抜けたまち ①~江戸堀 [大阪市西区]

江戸時代、ここ江戸堀界隈は、当時の一流の知識人・学者が集まりました。幕末には『日本外史』の頼山陽が生まれ、蘭学者・中天游の私塾「思々斎塾」が開かれ、そこにはあの緒方洪庵も学びに訪れました。
のちに 緒方洪庵の弟子で近代日本陸軍の父・大村益次郎が寓居した場所や反骨のジャーナリスト・宮武外骨が「滑稽新聞」を発刊したのも、ここ江戸堀です。時代を駆け抜けた先賢者たちの足跡を訪ねながら 江戸堀界隈を歩いてみましょう。

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地下鉄四つ橋線の肥後橋駅に降り、西に向かうことにします。

まずすぐに 地元の商店街がありましたので訪ねてみますね。

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肥後橋商店街は「日本一」 短い商店街です。

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全長約79メートルしかなく、戦後は玉水商店街と呼ばれていましたが、昭和40年地下鉄に肥後橋駅ができて改名したそうです。

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商店の数は 少ないですが 実に活気ある商店街で お昼時には お弁当売りの声が響いてました。

ここから すぐのところに ある史跡。

頼山陽生誕地

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頼山陽は江戸時代後期の歴史家・漢詩人で安永9年(1780)、現在の江戸堀で広島藩の儒学者の子として生を受けました。江戸遊学後、脱藩し失敗、自宅に幽閉の身となります。そこから源平・南北朝・徳川時代までの武士の栄枯盛衰を描いた歴史書『日本外史』の執筆を始めます。文政9年(1826)に完成したのち、時の老中、松平定信に献上されました。陽明学者として 大塩平八郎にも影響を与え、没後に出版された『日本外史』は幕末の大ベストセラーとなり、尊皇攘夷運動に大いに影響を与えたのです。

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お向かえにはこんな元気な 食べもん屋さんがありますよ。

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京町堀界隈をさらに西に行くと小学校が見えてきました。

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西船場小学校は昭和18年(1943)に東江小学校を改称したもので、旧名の東江とは東江戸堀の意味です。

先賢景仰碑
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この地には江戸時代から多くの先覚者・学者・文化人を輩出しており、昭和10年(1935)に東江小学校創設50周年を記念して建てられた顕彰碑です。非常に年代が経っておりそこに掲げられた先人たちの名前はなかなか素人では読み取れませんが、頼山陽や後藤松陰、篠崎三島・同小竹、並河寒泉らの名前が刻まれています。


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ガレージの名前もここらが京町橋があったことを示していますね。

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すこし西に歩いていくと 大きな駐車場の脇に 実に小さな史跡が有りました、

関西法律学校発祥の地

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関西法律学校は、明治19年(1886)に、当時の大阪控訴院長であった児島惟謙(のちの大審院院長)らの賛成を得て、ここにあった願宗寺境内に創立されました。当時は児島のほか、大阪始審裁判所長の大島貞敏、のちの大阪商工会議所会頭の土居通夫らが名誉校員でした。関西法律学校は 現在の 関西大学の前身でもあります。

さてここから 北の方角に 歩くことにして さらに 知られざる文人学者の足跡を訪ねることにします。

反骨のジャーナリストや かつて江戸堀にかかっていた橋の名残なども訪ねますよ。。¥^^

西長堀川の幻の橋を訪ねて ②~白髪橋・問屋橋・富田屋橋から四ツ橋まで [大阪市西区]

長堀川、西長堀川には かつて 様々な橋がかかっており それぞれ 独特の名前が付けられています。
特に大阪の地名でも有名な「四ツ橋」由来などを 訪ねて 町歩きを 続けていきましょう。

~西長堀は 今は 公園に!かつての橋は いずこへ~

実に広い交差点ですが ここにもかつて 橋が架かっておりました。

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白髪橋

鰹座橋と 時同じ頃、架設され、北詰は新町3丁目、南詰めは北堀江3丁目にあたり 共に当時は 白髪町でした。

昔、新羅の船がここに 着岸してから それが訛って 白髪町・白髪橋となった説もあり、また当時 土佐藩が自国の白髪山から材木を伐出して、この地で市場を設けたことからとする説があります。

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交差点から少し南西に入ったところに あみだ池大黒が あります。普通の和菓子のお店のようですが ずいぶん歴史ある老舗です。

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文化2年(1805)創業です。長堀川畔には西国大名の蔵屋敷が建ち、年貢米を運ぶ船が多数 停泊します。
あみだ池大黒の初代・小林林之助は その船底にに貯まる余剰米に目を付けて、おこしの原料とすることを思いつきました。日露戦争当時には戦地に赴く兵士への明治天皇からの恩師の菓子としてここの おこしが選ばれました。

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三代目・小林利昌は不眠不休で生産に励んで、35万個を3ヵ月の納期に完納することができました。

その後、戦争が終わり、宮内庁御用達になった おこしは 大阪名物の お菓子となったのです。

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全国各地から集められた3500もの大黒様は 藏に納められ 戦災にもあわず 焼け残っています。

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あみだ池筋を 北に歩きますと お寺の門構え。

和光寺(阿弥陀池)

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あみだ池は古代から霊水が枠有難い池で 古くから霊験あらたかな池として有名です。

さて、かつての長堀川にあった ずいぶん長い公園を歩くことにしますね。

まず目についたのが この史跡です。

大阪木材市売市場発祥の地

元和元年(1622)頃、土佐藩の申請で 立売堀にて 材木商が始まり、この地に 蔵屋敷を構えるに至って 西長堀川でも材木商が許可されました。土佐や日向、紀州といったところから材木が集まり、西長堀南詰めから 富田屋橋、問屋屋橋、白髪橋にかけての浜は 昭和に至るまで年中 材木市が営んでいました。

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戦後、堀の水質汚染が進み、水運利用も少なくなり、西長堀川が埋め立てられ、その歴史に幕を降ろしました。
今でも 堀江界隈には 材木商の看板が点在していることがあります。

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問屋橋は、寛永2年(1625)の長堀川開削から明暦元年(1655)の間に架けられた橋です。問屋橋周辺には木材の問屋が建ち並びこれらの問屋が架設をまかなったことから 問屋橋と名付けられました。

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富田橋は、明暦3年(1657)から元禄元年(1688)の間に架けられたとされ、当時の豪商、富田屋の屋号にちなんで名付けられました。

富田屋橋のの橋上で、幕末の天文学者 間長涯が天文観測をしたことは有名で、観測をする際には一般の人を通行止にしたと言われています。

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間長涯は江戸中期の暦学者・天文学者で長堀で天文学を学び、江戸に出て 寛政9年(1797)に寛政歴を完成させました。幕府の直参取立てを断り、大坂に帰り、英国製の天文観測器具、技術を研究し、富田屋橋で天文観測に従事しました。卓越した天文観測技術は、弟子の伊能忠敬に伝えられ、その後の日本地図作成に大いに役立ちました。

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「間長涯天文観測之地」の碑は大阪市に長堀川ほとりに建てられましたが、長堀川が埋め立てられると グリーンプラザ内に移されました。

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公園を後にして 次なる史跡を尋ねることに

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新町公園内にある史跡です。

「ここに砂場ありき」石碑

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豊臣秀吉が大坂城を築いたとき 大坂城中に資材置き場が 設けられ、新町あたりにも砂類の蓄積場が有りました。工事関係者が多く、その人々に麺類を振舞った「いずみや」「津の国屋」などが開業しました。この地が 本邦麺類発祥の地であるとして、大阪のそば店誕生400年を記念して建立された石碑であります。

なにや レトロな建物も目につきました。大阪屋です。

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隣の社屋には こんなオブジェもありました。

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「改良演劇発祥の地」

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かつて新町南公園北側に新町演舞場がありました。新町楼の芸妓が踊りを披露し、春には「浪花踊」が披露された舞台でした。戦後、演舞場は書籍取次業の大阪屋になりましたが 当時の面影そのままに 残されています。

さて、長堀通りを歩むこと 東に 最終訪問地 四ツ橋に近づきます。

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大きな交差点にも 重要な史跡があります。

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四ツ橋は、かつて長堀川、西長堀川に架かっていた 四つの橋からその名が由来します。

ここ四ツ橋には 今でも当時の橋の様子を再現されています。

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吉野橋

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下繋橋

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炭屋橋

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上繋橋

二つの川に 四つの橋が 東西南北に 井の形に架かっている珍しさから 浪花の名所として 知られています。

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天保8年(1837)には 幕吏に追われた大塩平八郎父子が船で逃走中に、四ツ橋の下で 刀を投げ捨てたといわれています。

今は 高速道路の すぐ下に 石碑が残されているのみです。

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小西来山 作

「涼しさに 四ツ橋を四つ わたりけり」

上島鬼貫 作

「後の月 入て貌(かたち)よし 星の空」

なんとか 四ツ橋まで たどり着きました。足早でしたが 大阪の幻の橋の数々に巡りあえました。

今は 高速道路や 地下鉄の駅の名前のみで親しんでいる 町の名前にも 古い時代の 歴史が刻んだ意味あいが込められているんですね。




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今回の道順です。

長堀橋から 四ツ橋まで 大阪西区を 歩きましたが まだまだ この近辺には 古くからある史跡が残されていますので またの機会に 訪れてみます。。¥^^

西長堀川の幻の橋を訪ねて ①~伯楽橋・玉造橋・鰹座橋 [大阪市西区]

昭和46年(1971)に埋め立てられてしまった西長堀川。江戸時代には木津川と船場、島之内、そして大阪湾を繋ぐ、大坂一の大動脈の運河ともいえる存在でした。木材市場や三菱発祥之地など有名な史跡が沢山ありますね。

~玉造橋から伯楽橋、土佐稲荷神社をめざして~

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いつものように地下鉄 四つ橋線に乗って 長堀鶴見緑地線に乗り換えて、西長堀駅に降り立ちます。

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目の前には すぐに 道標がありました。西に歩くこと50メートルほどで 広い交差点にでます。

玉造橋

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玉造橋がかつてあった交差点。17世紀の半ばには大坂城・玉造口の与力・同心が増員され この地に移住せられたためにこの名が付いたらしいです。

またまた50メートルほど西へ歩くと 伯楽橋があります。

伯楽橋

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明治41年(1908)に市電東西線開通にあわせて架橋されましたが 西詰に開かれた 松島遊郭の圧力もあって昭和15年(1940)まで、市電専用橋で歩行者は通れませんでした。

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伯楽とは あの「荘子」に登場する中国・周代にいた馬の良し悪しが見分けられる名人のこと。そうです。そこから牛馬の売買・仲買人、病気を治す医者などのことを 指す言葉となったそうです。
名伯楽などという風に つかわれていますね。

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木津川が日本全国から集まる物産の輸送拠点になって、荷馬車の業者が多く集まり、そのような橋の名前になったようです。

再び、玉造橋に戻り すこし南の方に入ると 大きな稲荷神社が あります。かつては土佐藩蔵屋敷があり、米穀、材木、鰹節、砂糖など土佐の物産物が多く扱われていたそうです。

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古くから屋敷内には稲荷神社がありましたが 享保2年(1717)に藩主・山内豊隆が社殿を造営しました。江戸時代には桜の名所として有名でした。

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明治2年(1869)、岩崎彌太郎が土佐藩のお手先商法で「開成館貸殖局大阪出張所」の幹事心得となります。汽船や武器の輸入に活躍し、翌年、廃藩置県が行われるに先立って、後藤象二郎や板垣退助らと協議して、長堀川北岸に事務所を開設、ついに藩から独立する形で「九十九商会」を設立します。

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土佐藩の負債を肩代わりする条件で 船舶3隻を入手し、海運業を始めます。一旦は 三川商会となり、明治6年(1873)3月、三菱商会と改称され、これが後に 三井・住友と並ぶ 日本三大財閥のひとつ、三菱財閥の起源です。

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土佐稲荷神社は三菱発祥の地であり、神社のいたるところに その史跡が残されています。

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大鳥居から本殿までも ずいぶん距離がありますね。

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稲荷神社の 特徴の きつねの石像に混じって 実にたくさんの狛犬様が いらっしゃいました。

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こちらの狛犬様など いかにも彌太郎に似ておるではありませんか。

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狐も 牙をむいて 空を見上げています。

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彌太郎は、土佐藩主・山内家の三ツ柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋をあわせて社章「スリーダイヤ」をつくりました。土佐稲荷神社の社殿の屋根の神紋のなかにもスリーダイヤが入っています。

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どうですか?見えますでしょうか。

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ここにも 有りましたよ。

境内には 岩崎彌太郎邸宅跡の碑があり、神社を囲む玉垣などは三菱系列の会社が寄進しているのだそうです。

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土佐稲荷神社

住所】大阪市西区北堀江4-9-7【最寄駅】地下鉄千日前線西長堀駅下車 徒歩5分

やがて 稲荷神社をあとにして 大通りにでました。ここも有名な橋の名前が付いた交差点でした。

鰹座橋

鰹座橋は元和8年(1622)の長堀川開削から明暦元年(1655)までの間、架設され、鰹節を売買する鰹座があったことから名前がつきました。

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江戸時代には この地にあった 土佐藩蔵屋敷を中心に 、土佐廻船が海産物や材木などを大量に陸揚げして、盛況を極めたそうです。

今回歩いた コースです。



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次回は 西長堀を東に進み さらに 昔の大坂商人のルーツを探り、かつてあった 幻の四つの橋を訪ねます。

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