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近代大阪発展の地は西へ ④ 川口居留地跡 [大阪市西区]

江之子島に大阪の発展の礎があったという史跡を訪ねてから 木津川沿いに かつて外国居留地があった川口地区を訪ねました。

その前に木津川沿いに歩を進めますと 住民の生活に溶け込んだ 史跡があります。

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天満宮神幸御上陸地碑ですが、モータース屋さんの軒先にひっそりとありました。

天神祭の船渡御も かつては大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸後、陸路、松島の天満宮行宮の御旅所を目指す御列でした。

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江之子島周辺も 今は再開発の途上で 新たに町ができていくみたいです。

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川口居留地付近の交差点に差し掛かります。

川口居留地跡

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慶応4年(1868)7月29日、明治政府は道路と街区を外国人の指示通りに造営して治外法権地区を造り、26区画の永代借地権を競売しました。

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しかしながら、川の水深が浅く、大型船の出入りに不便なため、多くの外国商人は、神戸の居留地に移転しました。

明治32年(1899)に居留地が撤廃されるまでこの地には、外国人が散歩する姿が見られ、文明開化を象徴する地区として、異国を感じられる雰囲気がありました。


川口基督教会

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明治2年(1869)、長崎からやってきた米国公会宣教師 C.M.ウィリアム主教が英学講義所を開校し、英語による礼拝を始めたのです。

明治14年(1881)に教会が設立され、大正9年(1920)に現在の礼拝堂が建設されます。

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平成7年(1995)の阪神淡路大震災ではこの辺も致命的な打撃を受け、一時は取り壊される危機に見舞われましたが 信者の力に助けられ、平成10年(1998)に見事に復元され、ゴシック調の重厚なデザイン、美しいステンドグラスなどが 居留地時代の面影を残しています。


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この辺には 当時を偲ぶ 建築物が たくさんあります。

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いずれも年代を感じさせつつ 色あせない風情がありますね。

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再び 木津川に戻り 橋を渡ると 大きな建物が目に入ります。

津波・高潮ステーション

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大阪府西大阪治水事務所が所管する防潮堤や水門の津波・高潮防御施設の一元管理を行う「防災棟」と、府民の防災意識の向上を目的とした「展示棟」を併設するところです。

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かつて 大阪を襲った高潮や、近い将来 襲ってくる東南海地震、南海地震などの津波について、だだしい知識が学べるようになっています。

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さて、江之子島、川口居留地の町歩きも 最後に差し掛かってきました。

阿波堀川跡碑

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阿波堀川は、西区の堀の中でも最も古く、慶長5年(1600)に開削され、西横掘川から分流して西に流れ百間堀川に流入していました。昭和31年(1956)府の防潮堤工事のため 全て埋められました。

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阿波座交差点までたどり着き 地下鉄に乗って 帰路につくことにしました。

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この地には まだまだ 面白そうなところが残っており 特に 川口居留地から西の方向にも いくつかの史跡があるようなので またの機会に 訪ねてみますね。


次回からの また 大阪西区の 町歩きを続けてみますよ。。¥^^

近代大阪発展の地は西へ ③~江之子島政府への道 [大阪市西区]

大阪市西区の地にはかつて 近代大阪の未来が託されていた。

雑喉場市場跡から木津川あたりに 足を進めます。

雑喉場(ざこば)橋跡

雑喉場市場の百間堀川に架かっていた橋。

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昆布佃煮の老舗「神宗(かんそう)」は、かつて雑喉場橋東詰めで商いを営んでいました。

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禅宗・淀屋橋店には当時の雑喉場商人の気質を守ろうとする親柱が、今でも保存されています。

旧大阪市役所江之子島庁舎跡

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こんな小さな史跡が・・・見落としそうです。

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明治22年(1889)4月、市政制度導入により大阪市が誕生しました。当時は 府知事が 市長を兼任し、府庁内に市役所が置かれたそうです。

同年32年(1899)、府庁の北側・木津川東詰めに支庁を移転しました。

庁舎は同45年(1912)、堂島庁舎に移転するまで存続します。

木津川橋碑

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慶応4年(1868)に架けられた橋。外国人居留地が建設された川口と、大阪の行政の中心地だった江之子島を結んだ重要な橋です。

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大阪と海外を結ぶ架け橋ともなっていくのです。

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遥かなる 木津川のよどんだ水辺には かつての大阪新政府の夢が浮かんでは 消えていくようです。

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次回は 川口居留地跡を訪ねます。。¥^^

近代大阪発展の地は西へ ②~靭公園から雑喉場(ざこば)魚市場跡 [大阪市西区]

靭公園のテニスセンターから 歩き始めます。

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靭公園のなかにある神社です。

楠永神社(御霊神社元宮)

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2本の楠が主神ですが かつて楠を伐採しようとしたものが、災難にあうこと相次ぎ、お払いをしたそうです。

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その際白い蛇が出てきて この神木は切るべからずとして 今に残っています。
楠永神社が鎮座する前は御霊神神社の元宮がありました。

永代浜跡

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靭本町付近にあった海部堀川の荷物陸揚げの便を良くするために開削した約724メートルの堀を永代堀といい、阿波座掘りからの屈折点あたりを永代浜と称しました。

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海産物の荷揚げ・鰹節の専門市場として靭の中心地となりました。

靭テニスセンター

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おりしも 世界スーパージュニアテニスの開催がなされています。

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ちょっと 覗いてみます。

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若いテニスプレーヤーたちの熱戦が繰り広げられていました。

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江戸堀西公園に立ち寄ると なんと ひまわりが咲き誇っていました。

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この時期に ひまわりと思いましたが 今年のこの陽気では 満開の状態も納得です。

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公園のハトも 寄り添って お出迎えですか~~

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高速道路をくぐると その先に このあたりに かつて栄えた魚市場の史跡がありました。

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雑喉場(ざこば)魚市場跡

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江戸時代に このあたりは雑喉場町といい、サッカー場一面もある 一大魚市場でありました。

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その規模は 西日本最大で 堂島市場・天満青物市場と並び、近世大坂の三大市場といわれました。

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安永元年(1772) 問屋株が免許され、独占的にその地位が認められたそうです。

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昭和6年(1931)、大阪市中央市場に吸収合併されるまで この地で取引がなされていました。

さて、ここから かつて 江之子島政府なる 大阪の発展の象徴となる 史跡を訪ねてみます。

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今は ずいぶん新開発が されて 工事中のところも多いのですが、かつての川口居留地跡まで訪ねていきます。

近代大阪発展の地は西へ ①~靭公園 [大阪市西区]

明治7年(1874)、今の大阪市西区江之子島にルネッサンス様式の2階建て煉瓦造りの初代大阪府庁舎が竣工します。

明治になって西欧の文化や制度が一気に移入してきて、大きな港を持つ大阪は西に向かってさらなる発展を遂げると予想されました。

ここを当時の大阪庶民は「江之子島政府」と呼んだそうです。

昼の憩いの公園 靭公園を訪ねて

大阪市営地下鉄 本町駅に降り立ちます。

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さっそく向かいの交差点に石碑を見つけます。

信濃橋洋画研究所

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大阪に香り高い文化を根づかせようと、大阪出身の洋画家小出楢重(こいでならしげ)・国枝金三・鍋井克之(なべいかつゆき)らが中心になって、大正13年に信濃橋洋画研究所が開設されました。
多くの専門画家を輩出した後、研究所は昭和6年中之島に移り、中之島洋画研究所と改称したが、昭和19年戦争激化に伴い閉鎖されました。その時代の大阪の近代洋画界の発展に大きく寄与しました。

本町通りを西に進んでいきましょう。

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このあたりはビジネス街で 沢山の商社や倉庫が立ち並び 沢山の会社員が行き交っています。

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そんなビルの一階に大きな立派な碑があります。

大塩平八郎終焉の地碑

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大塩平八郎は江戸時代後期 大坂町奉行所の与力であり、陽明学者としても有名で、当時の政治姿勢を問い、民衆に師父と慕われる存在でした。

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天保8年(1837)2月19日に門人の武士・農民を率い飢饉に苦しむ民を救い、政治腐敗の起源を絶とうとして決起しました。

大塩親子は乱後、この地の近く靭油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏しておりましたが、同年3月27日幕吏の包囲の中、ついに自焼して果てたとされます。

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1997年 大塩事件研究会 による碑は たいへん立派な黒塗り石碑でした。

靭幼稚園の極彩色豊かな壁画を横目に 靭公園へと向かいますね。

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うっそうと木々が生い茂っており ここがかつて靭塩干魚市場の跡地であったとは感じさせないでしょう。

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太平洋戦争後、占領軍に接収され
、昭和27年(1952)の講和条約締結により大阪市に返還され、公園と姿を変えて 整備が進みました。

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ところどころの オブジェが面白いですね。これは何かの花の形を現しているんでしょうか。

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公園内には バラ園と コスモス園がありましたよ。両方とも満開ですね。

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公園内の水が流れ落ちる 噴水あたりの銅像です。


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不思議なオブジェの前でお弁当を広げる家族連れも多いですね。

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本当にこの日は お天気が良くて ちょうどお昼時でもあり 近くのサラリーマンや OLがお弁当持参で休憩してます。

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ちょっと 公園を外れると こんな建物もあります。

大阪科学技術館

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「科学技術でひらこう、地球のあした」がテーマの科学技術博物館。エレクトロニクス・バイオテクノロジーなどの地球に優しい技術も紹介します。ちなみに敷地は 大阪の生んだ 財閥 五代友厚の屋敷跡です。

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さて、裏通りに入ると たくさん レストランや めし屋が 立ち並んでおります。

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ちょっとレトロな雰囲気のお店が たくさんありますね。

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そんな中にも 大正2年創業のお寿司屋さんもあります。「みやこ」

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大漁旗が翻っておるようです。

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「飛行船スタイル」  かつて飛行場があったからでしょうか。

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再び 公園にもどり 辺を見回すと また新たな石碑を見つけました。

梶井基次郎碑、飛行場跡説明碑

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梶井基次郎は、明治34年(1901)、旧西区土佐堀通5丁目生まれで、旧制北野中学校在学中に靭に住んでいました。東京帝大在学中 同人誌「青空」を創刊、代表作「檸檬」を発表します。
戦後、米軍により、小型機発着空港として利用されたことの説明碑もあります。

公園にはこんな ハットさせられるような 家族をかたどった オブジェがあるんですよ。

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あははっ・・・ 思わず笑ってしましました。 パンダさんですね。実によく手入れされておりました。

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さて、さらに公園の西に向けて移動します。靭公園と言えば テニスコートですね。

次回は 国際大会も開かれる うつぼテニスセンターから 世界スーパージュニアテニス2011の様子から 大阪一の魚市場であった 雑喉場(ざこば)から 江之子島方面を散策します。。¥^^

靭公園のバラとコスモス~秋の公園 [大阪市西区]

先日 大阪市の西区にある靭公園に行ってきました。

バラとコスモスが満開で 公園には昼食時にお弁当を食べている会社員が沢山。。

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大阪西区の横堀あたりにも沢山史跡が眠っています。

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そんな、町歩きに次回から 出向いてみたいと思います。

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バラも綺麗で 美しいですよ。。¥^^
タグ:靭公園 西区
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