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先賢景仰!時代の最先端駆け抜けたまち ②~江戸堀 [大阪市西区]

前回に続き 江戸堀界隈を歩き、時代を駆け抜けた先賢の人たちの足跡に触れるまち歩きです。

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江戸堀町あたりから西に歩いていくと京町堀2丁目から北に進むとまもなく公園が見えてきます。

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公園の角に 歴史的な石碑があります。

中天游邸跡

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中天游は 23才より江戸で古賀精里に儒学を、大槻玄沢の芝蘭堂で蘭方医学を学び、京都で芝蘭堂四天王のひとり、海上随鷗(かいがみずいおう)から教えを受け、35歳の文化14年(1817)この地で開業しました。
医学の心得もあり、女医として有名であった妻 さだとともに医業を開くも蘭学の道をつきつめ、エレキテルの研究家橋本宗吉の絲漢堂(しかんどう)に出入りして私塾・思々斎塾を開きました。のちに適塾を開いた緒方洪庵も江戸に出るまで5年間、中之島の備中足守藩の蔵屋敷から、思々斎塾に通っていたといわれてます。

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公園の名前が 今では 花之井公園となっていますが 公園を通り過ぎると中学校が見えます。

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この中学校の中にかつて 江戸堀川にかかっていた橋の跡が残されていました。

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花之井橋跡

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花之井橋は堂島大橋から芦原橋までの市電開通に際し、大正9年(1920)に江戸堀川の第6橋として架けられたもので、橋の柱が残されていました。

また、花之井中学校の校庭はかつて江戸時代に石見津和野藩の蔵屋敷があったところで、ここの井戸の水は当時大坂でも有数の良質として知られ、慶応4年(1868)に明治天皇が大坂北御堂を行在所としていた際は、この井戸水をお使いになられていました。

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「此花之井」の名が与えられて以来、大坂の名水として評判になり、明治42年(1909)5月、有志によりこの碑が建てられ、昭和になってもう一つ石碑が建てられました。

やがて 北に抜けると 大通りになり 真向かいに 大きな倉庫が見えます。

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三井倉庫の大きな建物を右目に見て あみだ池筋に向かって歩いてみます。

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ちょうど あみだ池筋の角に 草の中の埋もれそうな 石碑があったのです。

宮武外骨ゆかりの地碑

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宮武外骨は幼名を亀四郎といい、「亀」が 外骨内肉の生き物であることからちなんで、外骨と改名しました。公権力に反骨の精神で挑み、入獄4回、罰金・発禁などに至っては29回にもおよびました。当初は東京を拠点にしていましたが明治33年(1900)に大阪に移り、生地の香川県小野村をもじった小野村夫の名前で 行政の腐敗を面白おかしく揶揄した「滑稽新聞」を発行します。滑稽新聞社は京町堀4丁目からここ江戸堀南通4丁目に移転。廃刊になる明治42年(1909)まで毎月2回発行されました。

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外骨は東京帝国大学内に明治雑誌新聞文庫などを創設し、書誌収集の面で、大きな功績も残しています。

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さて、あみだ池筋を北に行くと 土佐堀川に行き着きますが その途中に 見過ごしてしまうような 史跡があるのです。

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これは 「大阪上等裁判所跡」で明治5年(1872)に司法官制による司法裁判所を改名。明治8年(1875)に全国で4ヶ所設置されました。その管轄区域は大阪・京都のみならず滋賀・石川・奈良・和歌山・堺・兵庫・播磨・岡山などの諸県に及びました。「明治天皇聖濁・上等裁判所址」の碑は 大正14年(1925)5月、大阪市青年連合団が建てました。

ひとまず 土佐堀橋に到着しました。

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橋の上から 土佐堀川を眺めつつ 大阪市内の高層ビルを目の当たりにすると 江戸時代からの時間の流れがひしひしと感じられますね。

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この日は 暖かで 空と雲のコントラストが鮮やかですね。次回は残りの行程を歩いてみます。。¥^^
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