『難波大道』地蔵尊めぐりの町歩き 前編~寺田町から美章園まで~阿倍野区 [大阪市阿倍野区]
難波大道という古代の街道は大阪市内から堺市にかけて建設された道路。「日本書紀」によると推古21年(613)、「難波から京に至るまでに大道を置く」とされている。
この道の一部が難波大道だと考えられ、難波宮から飛鳥に至る道が架けられていたのです。その大道の道筋にある町が寺田町・河堀口・美章園。
難波大道から奈良街道、田辺街道など、歴史のある街道交差点から地蔵尊を巡る町歩きです。
寺田町という駅名は、その昔、この地一帯が四天王寺の寺田(じでん)であったことからつけられたんですね。
寺田町から一直線に北上すると難波宮に到達します。
天武天皇によって難波と大和を結ぶ最も重要な道に関を設け、難波宮の南端に城壁を巡らしたとあります。
昭和55年(1980)に大和川・今池遺跡で全長170メートルに渡って直進する古代の道路跡が発掘され、堺市常盤町でも下水処理の新設工事中に幅18メートルの道路遺構が見つかりました。
直新北上すると難波宮に到達することや、出土品もほぼ同時代のものであることから難波大道の遺跡であれと思われます。
寺田町南商店街を南方向に行く道は江戸時代に大坂から高野詣での近道として利用されていた下高野街道です。四天王寺から寺田町を経て、田辺~天美(松原)~八下(堺市)~岩室(大阪狭山市)に続き、西高野街道と合流します。田辺につながる街道でもあるこの道は「田辺街道」とも呼ばれています。
道すがら見つけたアートなオブジェかと思いきや、単なる廃墟となったスナック跡。
さらに 寺田町を歩くこと南に行きます。この道は奈良街道と呼ばれています。
大阪と奈良を結ぶ奈良街道の一部であり、竜田大社付近を通ることから「竜田奈良街道」と称されることも。
飛鳥時代には、難波津・四天王寺と斑鳩・法隆寺を結ぶ街道として整備され、聖徳太子も通ったことがあるそうです。
「生野地蔵尊」は摂津国東成郡生玉ノ庄、毘沙門池に埋もれていたお像を明治になって、ここらの村人が安置し地蔵堂を建てたのが始まりとされます。
これまた斬新な建物。らせん状のオレンジの作りが目を奪いましたが、パチンコ屋さんですね。
奈良街道から少し民家の密集しているところに入っていくと、またもや地蔵尊が・・・
「黄金地地蔵尊」は大正9年(1920)に平野街道筋に住んでいた仏師・吉本久三郎氏が木造一刀彫の地蔵菩薩を祀ったのが始まり。かつては もう少し西寄りの字黄金地にあったとされます。
さてさてさらに道を進むと大通りに出てきます。
ここの地名、「源ヶ橋」は旧猫間川にかけられた橋の名残で、初代源ヶ橋は摂津の国では最も古い橋のひとつです。延歴年間(782~806)には架けられていたといわれ、近世になってからの源ヶ橋は木造の欄干橋だったそうです。昭和5年(1930)猫間川が暗渠となってからは、いつのまにか橋が撤去されてしましました。
猫間川は古文献、古地図にも記載され、古くは自然流の川でしたが現在は暗渠下しています。かつては阿倍野区桃が池あたりの溜池・用水の水を天王寺を通って源ヶ橋付近から上町台地東側沿いに大阪城西側へ。
猫間川の名の由来は「このあたりが猫間家の所領であったから」という説があります。昭和になって市街化が進み下水は地下に埋められ昭和32年(1957)には暗渠工事が完成しました。
「八丁堀」なんてこのあたりに因んでの名前?単に 必殺シリーズが好きなだけ?
大通りから斜め南に商店街が続いていますね。
「生野商店街」は源ヶ橋から生野八坂神社までの東西約1キロに及ぶアーケード商店街です。昭和初期に開業した大阪市設生野公設市場が前身で、地域の人にとても愛されている商店街です。
商店街の中ほどに 古風な建物を見つけましたよ。
タイル張りの壁といい、屋根の上の「自由の女神」像といい、なんとも変わった建物です。
ここは昭和12年(1937)に完成した「源ヶ橋温泉」です。平成10年(1998)には銭湯建築として初めて国の登録有形文化財に指定されました。屋根の上の自由の女神像は「ニューヨーク」と「入浴(にゅうよく)」をひっかけて洒落ているのだそうですよ。
かつての「源ヶ橋」の欄干の面影を模した石柱の看板が立っておりました。
商店街のあちらこちらに かつて華やかりし頃の商店街の名残りがあります。
そんな商店街の奥まった所にあった地蔵尊がこちら。「沖美地蔵」です。
そのむかし このあたりに渡し守で源兵衛という男がおりました。じつは渡し守は仮の姿で 通りがかりの者を殺しては金品を強奪する盗賊でした。あるとき、いつものように旅人を殺して金品を奪おうとしたところ この者が長年探していた実の息子であることが分かり、深く悲しみました。後悔した源兵衛は出家し有源上人となって貯めていた悪銭を罪滅ぼしのためと 猫間川で水難した人の供養にと地蔵尊を建てました。
さて 再び源ヶ橋交差点付近まで戻り、道路反対側の方向に行きます。
町歩きの後半は河堀口を訪ねながら 街道名物に 舌鼓をうちます。かつて 坂本龍馬も食べたといわれる名物とは いかなるものでしょう。
次回を お楽しみに~~。。¥^^
この道の一部が難波大道だと考えられ、難波宮から飛鳥に至る道が架けられていたのです。その大道の道筋にある町が寺田町・河堀口・美章園。
難波大道から奈良街道、田辺街道など、歴史のある街道交差点から地蔵尊を巡る町歩きです。
寺田町という駅名は、その昔、この地一帯が四天王寺の寺田(じでん)であったことからつけられたんですね。
寺田町から一直線に北上すると難波宮に到達します。
天武天皇によって難波と大和を結ぶ最も重要な道に関を設け、難波宮の南端に城壁を巡らしたとあります。
昭和55年(1980)に大和川・今池遺跡で全長170メートルに渡って直進する古代の道路跡が発掘され、堺市常盤町でも下水処理の新設工事中に幅18メートルの道路遺構が見つかりました。
直新北上すると難波宮に到達することや、出土品もほぼ同時代のものであることから難波大道の遺跡であれと思われます。
寺田町南商店街を南方向に行く道は江戸時代に大坂から高野詣での近道として利用されていた下高野街道です。四天王寺から寺田町を経て、田辺~天美(松原)~八下(堺市)~岩室(大阪狭山市)に続き、西高野街道と合流します。田辺につながる街道でもあるこの道は「田辺街道」とも呼ばれています。
道すがら見つけたアートなオブジェかと思いきや、単なる廃墟となったスナック跡。
さらに 寺田町を歩くこと南に行きます。この道は奈良街道と呼ばれています。
大阪と奈良を結ぶ奈良街道の一部であり、竜田大社付近を通ることから「竜田奈良街道」と称されることも。
飛鳥時代には、難波津・四天王寺と斑鳩・法隆寺を結ぶ街道として整備され、聖徳太子も通ったことがあるそうです。
「生野地蔵尊」は摂津国東成郡生玉ノ庄、毘沙門池に埋もれていたお像を明治になって、ここらの村人が安置し地蔵堂を建てたのが始まりとされます。
これまた斬新な建物。らせん状のオレンジの作りが目を奪いましたが、パチンコ屋さんですね。
奈良街道から少し民家の密集しているところに入っていくと、またもや地蔵尊が・・・
「黄金地地蔵尊」は大正9年(1920)に平野街道筋に住んでいた仏師・吉本久三郎氏が木造一刀彫の地蔵菩薩を祀ったのが始まり。かつては もう少し西寄りの字黄金地にあったとされます。
さてさてさらに道を進むと大通りに出てきます。
ここの地名、「源ヶ橋」は旧猫間川にかけられた橋の名残で、初代源ヶ橋は摂津の国では最も古い橋のひとつです。延歴年間(782~806)には架けられていたといわれ、近世になってからの源ヶ橋は木造の欄干橋だったそうです。昭和5年(1930)猫間川が暗渠となってからは、いつのまにか橋が撤去されてしましました。
猫間川は古文献、古地図にも記載され、古くは自然流の川でしたが現在は暗渠下しています。かつては阿倍野区桃が池あたりの溜池・用水の水を天王寺を通って源ヶ橋付近から上町台地東側沿いに大阪城西側へ。
猫間川の名の由来は「このあたりが猫間家の所領であったから」という説があります。昭和になって市街化が進み下水は地下に埋められ昭和32年(1957)には暗渠工事が完成しました。
「八丁堀」なんてこのあたりに因んでの名前?単に 必殺シリーズが好きなだけ?
大通りから斜め南に商店街が続いていますね。
「生野商店街」は源ヶ橋から生野八坂神社までの東西約1キロに及ぶアーケード商店街です。昭和初期に開業した大阪市設生野公設市場が前身で、地域の人にとても愛されている商店街です。
商店街の中ほどに 古風な建物を見つけましたよ。
タイル張りの壁といい、屋根の上の「自由の女神」像といい、なんとも変わった建物です。
ここは昭和12年(1937)に完成した「源ヶ橋温泉」です。平成10年(1998)には銭湯建築として初めて国の登録有形文化財に指定されました。屋根の上の自由の女神像は「ニューヨーク」と「入浴(にゅうよく)」をひっかけて洒落ているのだそうですよ。
かつての「源ヶ橋」の欄干の面影を模した石柱の看板が立っておりました。
商店街のあちらこちらに かつて華やかりし頃の商店街の名残りがあります。
そんな商店街の奥まった所にあった地蔵尊がこちら。「沖美地蔵」です。
そのむかし このあたりに渡し守で源兵衛という男がおりました。じつは渡し守は仮の姿で 通りがかりの者を殺しては金品を強奪する盗賊でした。あるとき、いつものように旅人を殺して金品を奪おうとしたところ この者が長年探していた実の息子であることが分かり、深く悲しみました。後悔した源兵衛は出家し有源上人となって貯めていた悪銭を罪滅ぼしのためと 猫間川で水難した人の供養にと地蔵尊を建てました。
さて 再び源ヶ橋交差点付近まで戻り、道路反対側の方向に行きます。
町歩きの後半は河堀口を訪ねながら 街道名物に 舌鼓をうちます。かつて 坂本龍馬も食べたといわれる名物とは いかなるものでしょう。
次回を お楽しみに~~。。¥^^
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