毛馬のこうもんを目指して ②~大川・春風橋~ [大阪市都島区]
水底に沈んだ蕪村のふるさと 毛馬村はどこに?
大川はもともと淀川本流であったが、明治の淀川改修工事で毛馬の洗堰・閘門が作られ、そこから大阪湾までの13.83Kmの流れを大川と呼ぶこととなりました。
大阪の繁栄と時代のうねりを見つめてきた川で、現在は、中之島で堂島川と土佐堀川に分かれ、場所によっては様々な呼び名がつけられています。
寝屋川との合流地点は 江戸時代に京と大坂を往復した三十石船のターミナル、八軒家浜船着場がありました。
飛鳥の時代には難波津、平安期には渡辺津と呼ばれた要所でした。
大川の毛馬橋から天満橋までの両岸にはリバーサイドパークが広がり江戸時代より桜の名所としても有名です。
春風橋
淀川にほぼ並行して伸びる城北運河の大川の分岐点に架けられた歩行者自転車道路橋は昭和56年(1981)に完成。橋の名は 与謝蕪村の句、「春風や 堤長ごうして家遠し」にちなんで付けられたそうです。
この句は 蕪村の最高傑作ともいえる 抒情詩「春風馬堤曲」の発句で「やぶ入りや 浪花を 出て 長柄川」と並んで出てきます。奉公先から実家に帰る娘に託し、読み込んだ18首の歌に毛馬村への望郷の念が感じられます。
10代後半には両親とも別れ、家は没落。そして出奔。その後、京都で68歳の生涯を閉じるまで、二度と毛馬村に帰らなかった蕪村でしたが、失意のうち 幼き日を過ごした毛馬村を忘れることはなかったのでしょう。
蕪村が生まれた毛馬村は淀川の左岸で、対岸は北長柄村で、両方を毛馬渡しが結んでいました。蕪村が門人に送った書簡に「堤二は往来の客あり」としたのは、この渡しに急ぐ客があったという人々の姿を表したのです。
下流には源八渡し、川崎渡しなどがあり、ここに初めて橋が架けられたのは大正3年(1914)のこと。地元の熱心な運動の成果で、当時は木橋でした。現在の姿になったのは昭和36年(1961)のことです。
春風橋を通り過ぎる途中には 城北運河の 分岐点があります。
さて、毛馬橋から北へ進んで いよいよ毛馬のこうもんへ たどり着きます。
次回は こうもん の中に実際に 入っていきますよ。。¥^^
大川はもともと淀川本流であったが、明治の淀川改修工事で毛馬の洗堰・閘門が作られ、そこから大阪湾までの13.83Kmの流れを大川と呼ぶこととなりました。
大阪の繁栄と時代のうねりを見つめてきた川で、現在は、中之島で堂島川と土佐堀川に分かれ、場所によっては様々な呼び名がつけられています。
寝屋川との合流地点は 江戸時代に京と大坂を往復した三十石船のターミナル、八軒家浜船着場がありました。
飛鳥の時代には難波津、平安期には渡辺津と呼ばれた要所でした。
大川の毛馬橋から天満橋までの両岸にはリバーサイドパークが広がり江戸時代より桜の名所としても有名です。
春風橋
淀川にほぼ並行して伸びる城北運河の大川の分岐点に架けられた歩行者自転車道路橋は昭和56年(1981)に完成。橋の名は 与謝蕪村の句、「春風や 堤長ごうして家遠し」にちなんで付けられたそうです。
この句は 蕪村の最高傑作ともいえる 抒情詩「春風馬堤曲」の発句で「やぶ入りや 浪花を 出て 長柄川」と並んで出てきます。奉公先から実家に帰る娘に託し、読み込んだ18首の歌に毛馬村への望郷の念が感じられます。
10代後半には両親とも別れ、家は没落。そして出奔。その後、京都で68歳の生涯を閉じるまで、二度と毛馬村に帰らなかった蕪村でしたが、失意のうち 幼き日を過ごした毛馬村を忘れることはなかったのでしょう。
蕪村が生まれた毛馬村は淀川の左岸で、対岸は北長柄村で、両方を毛馬渡しが結んでいました。蕪村が門人に送った書簡に「堤二は往来の客あり」としたのは、この渡しに急ぐ客があったという人々の姿を表したのです。
下流には源八渡し、川崎渡しなどがあり、ここに初めて橋が架けられたのは大正3年(1914)のこと。地元の熱心な運動の成果で、当時は木橋でした。現在の姿になったのは昭和36年(1961)のことです。
春風橋を通り過ぎる途中には 城北運河の 分岐点があります。
さて、毛馬橋から北へ進んで いよいよ毛馬のこうもんへ たどり着きます。
次回は こうもん の中に実際に 入っていきますよ。。¥^^
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