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毛馬のこうもんを目指して ⑤ ~動く毛馬閘門 [大阪市都島区]

毛馬閘門の紹介も最終回です。かつて蕪村の故郷でもあった毛馬村に新旧淀川が出会う、毛馬閘門ができて大阪の町は水の都として今日を築いています。


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明治18年(1885)の大洪水で大阪は北摂、中河内郡、大阪市街の約15,000ヘクタール、約7万戸に甚大な被害がもたらされ被災人口は27万人にも及んだそうです。この惨状を見て立ち上がったのが淀川改修運動の旗手となった大橋房太郎であります。彼によって淀川改修の必要性が時の政治を動かし、明治29年(1896)淀川改修法案が可決されました。この時、房太郎は「淀川万歳!」と叫んだそうです。

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そうして、いよいよ日本初となる近代的治水工事が始まります。これまでのような外国人に頼った工事ではなく、フランスに留学し近代土木建築技術を学んだ沖野忠雄が設計をして工事を進めました。

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旧淀川、中津川、神崎川とわかれて蛇行していた淀川の下流をひとつの流れにするという大プロジェクトでした。日本初の大型土木機械が導入され、技術者を海外に派遣して、様々な試みがなされ、携わった労働者はやく800万人といわれています。
こうして明治40年(1907)に最初の毛馬閘門が完成したのです。


さて今回は 毛馬閘門訪問の最終回ですので 実際に現在の毛馬閘門がどんな風になっているのかを紹介しますね。

まずは 毛馬閘門の警告アナウンスが流れ、閘門のゲートの機械が作動するところから始まりです。





いよいよゲートが上がってきます。閘門内には船舶が待機していますよ。



ゲートが完全に上がりきるまでは だいぶ時間がかかるものです。



ついに船のエンジンがかかり、閘門を通り過ぎゲートをくぐって、大川に抜けて行きました。



なかなかの迫力でしたね。今回偶然にも毛馬閘門を通過する船舶に出会うことができました。

淀川河川に安泰をもたらし、大阪市民の安全をまかなっている毛馬閘門の重要性はますます増してくることでしょう。

数回に分けてお送りしてきた毛馬閘門を訪ねる旅は 今回で終わりますが これからも淀川、大川の水の流れをいつまでも忘れないようにします。

ここまで いつもご覧いただき ありがとうございました。

また、次回の更新で お会いしましょう。。¥^^

PS:更新が遅れがちですが 記事のアップは少しずつしておりますので ご容赦下さい。
タグ:淀川 毛馬 閘門

毛馬のこうもんを目指して ④~閘門の内部 [大阪市都島区]

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毛馬のこうもん 毛馬閘門は水門として 大川に流れる水量を調整する役目と同時に、淀川と大川の水位差により困難となる船舶の通過をスムーズにさせるための設備であります。また、閘門 および 大川の水を強制排水するための機能も備えています。

新淀川開削に伴う淀川改修工事で計画され、明治40年(1907)、本流の毛馬洗堰(あらいぜき)と水位の違う大川と新淀川間の船舶の航行をスムーズにするため「毛馬閘門(こうもん)」が完成しました。大正7年に二代目、昭和49年に現在の三代目の閘門がかんせいしました。

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今回は貴重な近代産業遺産として平成20年に国の重要文化財に指定された 旧毛馬閘門の内部に潜入してきました。

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ダムのようなところを 階段を下っていきますと 大きな鉄扉が構えています。

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当時は 閘門の水路を遮断するのは鉄製の観音開きになっているんですね。

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大きな扉を通り過ぎると 閘門の水路にあたる部分に到達します。ここは両岸がレンガ造りになっていて とても昔風の造りになっていますね。

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閘門の仕組みをわかりやすく説明してありましたが実際に 内部に入ることで より理解できます。

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閘門の扉は すごく大きなもので 両岸のハンドルを回して開け閉めしていたそうです。

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閘門の水路に船舶が停泊すためのものでしょう。

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ここに船を結わえて 停泊させていましたが 高いところと低いところにあるのは 水位によって船の位置が違うことによるものだそうです。

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閘門の周辺には旧水路にまつわる遺物がたくさんあります。

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明治43年(1910年)に淀川改修工事完了を記念して建てられた淀川改修紀功碑です。

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その横に毛馬北向き地蔵の祠がありますが、真ん中の地蔵様はまん丸ですね。

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その周囲に「毛馬の残念石」という大きな石が数個転がっており、江戸時代に大坂城を再建するときに伏見城から運ばれた石垣の石がその途中で運搬船から転落し、淀川改修工事の際に引き上げられたものだそうです。

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一層高いところから 眺めた毛馬閘門の全体像は かつて船舶が行き来していたことを思い起こすには あまりにも静かな光景です。

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かつて 毛馬第一閘門西側にはかつて長柄運河が流れており、新淀川開削で出た土砂を海老江まで運ぶために作られたもので、閘門下流側門そばに「眼鏡橋」が設置されていました。

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現在は運河は埋め立てられたが、サク部分以外は大正3年に造られたままに眼鏡橋は修復のうえ保存されています。

なんとも 百年前にタイムスリップした毛馬閘門探検記はいかがでしたでしょうか。

大阪の淀川にこんなスポットがあったなんて 知りませんでしたが 今回の訪問で 大阪の水路にまつわる歴史がまた ひとつ分かったようです。

最後は 毛馬橋の上からの風景。

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橋の柱の形が ユニークです。

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名前にちなんで 馬の鞍の形に似せているのですね。。¥^^


さて、次回は毛馬閘門訪問の最終回。 いよいよ 毛馬閘門が動き出します。

どんな風にかは 次回の更新を お楽しみに~~~




タグ:毛馬 閘門 淀川

毛馬のこうもんを目指して ③~蕪村公園・毛馬閘門 [大阪市都島区]

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毛馬橋から北に歩いていくと 公園があり そこを通り過ぎると淀川神社があります。

淀川神社
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かつて淀川河口で海賊取締をしていた武士が当時の15の神社の神様を守護神として祀ったのが起こりで 十五神社と呼ばれていました。

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明治42年(1909)、毛馬村の氏神、八幡大神宮が櫻宮に、友渕村の十五神社が大宮神社に合祀され、よりどころを失った毛馬、友渕、大東の人たちの働きかけで、昭和28年(1953)10月、旧神殿と境内をそのまま利用して復活を遂げました。現在は淀川の守護神として 淀川神社と呼ばれています。

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狛犬様も勇ましく 睨みを利かしていますが こんな御いぬ様がおられました。

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実際に飼われているようですね・・・

さて、淀川神社から城北公園通を渡ると 広い公園が見えてきます。

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平成21年開園したばかりの 蕪村を顕彰する公園で 1ヘクタールの広さがあります。「春風馬堤曲」に詠われている毛馬の堤を再現し公園内には蕪村の13句を直筆の石碑にきざみ並べられています。

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松尾芭蕉、小林一茶とともに近世俳諧史を代表する蕪村は 浪漫的、抒情的俳風を築き、生涯3000近くの句を読んだとされます。

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13句は その代表作とも言え、その多くは ふるさと毛馬村を読んだ作品が連なっています。

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公園を抜けて 大川沿いにさらに北上すると ついに目的地の 毛馬閘門が見えてきました。

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毛馬閘門のレポートは 後にして 淀川の河川べりに立ってみますと そこには広大な河川公園が続いていました。

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公園の風景を眺められる 道すがらにひっそりとあるのが 

蕪村生誕地の石碑

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享保元年(1716)、摂津国東成郡毛馬村に生まれた蕪村は 20歳の頃には 江戸に出て、夜半亭宋阿に師事し、俳諧を学びました。師の死にあって江戸を去り、27歳から下総国結城(茨木県結城市)を拠点に 憧れの松尾芭蕉の足跡を訪ねて東北を周遊します。

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その後、蕪村は42歳ごろから 京に居を構え、画業に専念。45歳で結婚。55歳で師を継ぎ、夜半亭二世に推載されました。「春風馬堤曲」「澱河歌(でんがか)」「老鶯児(ろうおうじ)」の三部作を刊行したのが 62歳の頃でした。絶頂期を迎えた6年後 天明3年(1783)12月、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」の辞世の句を残し、68歳で亡くなりました。

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今は河川べりになってしまった 蕪村の生まれ故郷の毛馬村ですが 彼は 毛馬村を出てから一度も毛馬に帰りませんでした。京からしばしば来阪したこともある蕪村でしたが そのまま毛馬に戻ることなく京に去ります。

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「幼童之時、春色清和の日には、心友だちと、此堤のぼりて遊び候」と毛馬を懐かしむ手紙も残しています。

俳号の由来とされる 蕪村の 「蕪」は「蕪(あ)れた村」の蕪で 荒れ果てた毛馬村のことを指すのでは という説もあるそうです。とにかく蕪村にとっての毛馬村とは 帰れない事情をかかえた ふるさとだったのではないでしょうか。

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新淀川開削と改修工事で計画がなされ、明治40年(1907)8月、普段の川の水を流すために「毛馬洗堰」と、水位が違う大川と新淀川の船舶の運行をスムーズに行うための「毛馬閘門」が完成しました。

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閘門は船舶の行き来に重要な役割をつかさどり、水路の整備には長年の苦労がありました。

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次回からは 毛馬閘門の歴史と 実際に旧閘門を訪ねた記事を載せますね。。¥^^

追伸:この度は 記事の更新が遅れていますが 少しずつ アップしていきますので お許しくださいね。。¥^^


毛馬のこうもんを目指して ②~大川・春風橋~ [大阪市都島区]

水底に沈んだ蕪村のふるさと 毛馬村はどこに?

大川はもともと淀川本流であったが、明治の淀川改修工事で毛馬の洗堰・閘門が作られ、そこから大阪湾までの13.83Kmの流れを大川と呼ぶこととなりました。

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大阪の繁栄と時代のうねりを見つめてきた川で、現在は、中之島で堂島川と土佐堀川に分かれ、場所によっては様々な呼び名がつけられています。

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寝屋川との合流地点は 江戸時代に京と大坂を往復した三十石船のターミナル、八軒家浜船着場がありました。

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飛鳥の時代には難波津、平安期には渡辺津と呼ばれた要所でした。

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大川の毛馬橋から天満橋までの両岸にはリバーサイドパークが広がり江戸時代より桜の名所としても有名です。

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春風橋

淀川にほぼ並行して伸びる城北運河の大川の分岐点に架けられた歩行者自転車道路橋は昭和56年(1981)に完成。橋の名は 与謝蕪村の句、「春風や 堤長ごうして家遠し」にちなんで付けられたそうです。

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この句は 蕪村の最高傑作ともいえる 抒情詩「春風馬堤曲」の発句で「やぶ入りや 浪花を 出て 長柄川」と並んで出てきます。奉公先から実家に帰る娘に託し、読み込んだ18首の歌に毛馬村への望郷の念が感じられます。

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10代後半には両親とも別れ、家は没落。そして出奔。その後、京都で68歳の生涯を閉じるまで、二度と毛馬村に帰らなかった蕪村でしたが、失意のうち 幼き日を過ごした毛馬村を忘れることはなかったのでしょう。

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蕪村が生まれた毛馬村は淀川の左岸で、対岸は北長柄村で、両方を毛馬渡しが結んでいました。蕪村が門人に送った書簡に「堤二は往来の客あり」としたのは、この渡しに急ぐ客があったという人々の姿を表したのです。

下流には源八渡し、川崎渡しなどがあり、ここに初めて橋が架けられたのは大正3年(1914)のこと。地元の熱心な運動の成果で、当時は木橋でした。現在の姿になったのは昭和36年(1961)のことです。

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春風橋を通り過ぎる途中には 城北運河の 分岐点があります。


さて、毛馬橋から北へ進んで いよいよ毛馬のこうもんへ たどり着きます。

次回は こうもん の中に実際に 入っていきますよ。。¥^^
タグ:毛馬村 都島

毛馬のこうもんを目指して ①~駒つなぎの樟(クスノキ)~ [大阪市都島区]

かつて俳人・与謝蕪村は享保元年(1716)、毛馬村に生まれ、若くして江戸に出ました。松尾芭蕉を慕い、その足跡をたどって東北を周遊した後、京に落ち着き 大坂にも何度か立ち寄りました。彼が生まれた故郷の毛馬村は新淀川開削のため川の底に消えてしまったのですが その毛馬村を目指して 大阪市都島区の毛馬界隈を散策してみます。

地下鉄谷町線の都島駅で降り、西にしばらく歩いてみました。都島通りにはいろんなお店があって面白いですね。

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シーズショップということが一目瞭然。

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食べ物屋も多いです。

こんなお店もありました。ここは夜に来ないとダメですね。期待していいのやら悪いのやら?

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さて、大通りから北に歩き始めますと都島工業高校があります。ここの正門には昭和天皇ご臨幸の碑ががありました。

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ここから再び 大通りの方に向かう途中に 都島神社があります。

都島神社

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かつてこの一帯は淀川の洪水に何度も見舞われ、後白河天皇がこの地に行幸されたおり、その惨状を哀れみ、洪水防止を祈願して神社を建てるように命じられました。

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毛馬・友渕近隣の8ヵ所の農民が協力して、永暦元年(1160)に建立されたのが この神社です。旧本殿その他は戦災で消失しましたが昭和24年(1949)に再建。

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天照大神をはじめ15神を合祀したので、当初は十五社神社と名付けられましたが、昭和18年(1943)に都島神社と改められました。

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境内には鎌倉時代の石造三重宝筺印塔(せきぞうさんじゅうほうきょういんとう)があります。四隅に飾り突起が付いた屋根を三層に積み重ねた珍しい形式の塔で「嘉元(かげん)二年」(1304)の銘が刻まれています。大阪市内最古の石造遺物として重要美術品に指定されています。

神社から北へ歩くと住宅街があり そこを抜けると道路脇にそびえ立つ大木のようなものが見えてきます。

渡辺綱駒つなぎの樟(クスノキ)

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平安中期の長徳年間(995~999)、この周辺は大江山の鬼退治で有名な源頼光の領地でした。頼光は一族の武神八幡大神をまつり、産土(うぶすな)神社を創建します。そのとき頼光自らが植えたとされるのがこの樟(くす)です。

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頼光の四天王のひとりで 頼光の荘園の管理を任されていた渡辺綱が、この神社に詣でるとき いつも馬の手綱をこの樟に繋いだことから、この名が付いたとされます。

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樹齢900年と推定される樟は、昭和13年(1938)に大阪府の天然記念物第1号に指定されましたが、第二次世界大戦の戦災で被災し、現在は枯渇状態です。

なお、産土神社は明治42年(1909)に、都島区中野町の桜宮神社に合祀されました。

900年もの間、枯れてしまったとはいえ 倒れずにいるとは なんともすごいですね。不気味に広がる枝ぶりが凄みさえ感じさせます。

ここから西にさらに歩き、毛馬桜宮公園にでて 北に向かいます。

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都島橋の上から 大川(旧淀川)を眺めながら かつて開拓されていった毛馬付近に想いをはせて 散策を続けていきますね。。¥^^

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