毛馬のこうもんを目指して ③~蕪村公園・毛馬閘門 [大阪市都島区]
毛馬橋から北に歩いていくと 公園があり そこを通り過ぎると淀川神社があります。
淀川神社
かつて淀川河口で海賊取締をしていた武士が当時の15の神社の神様を守護神として祀ったのが起こりで 十五神社と呼ばれていました。
明治42年(1909)、毛馬村の氏神、八幡大神宮が櫻宮に、友渕村の十五神社が大宮神社に合祀され、よりどころを失った毛馬、友渕、大東の人たちの働きかけで、昭和28年(1953)10月、旧神殿と境内をそのまま利用して復活を遂げました。現在は淀川の守護神として 淀川神社と呼ばれています。
狛犬様も勇ましく 睨みを利かしていますが こんな御いぬ様がおられました。
実際に飼われているようですね・・・
さて、淀川神社から城北公園通を渡ると 広い公園が見えてきます。
平成21年開園したばかりの 蕪村を顕彰する公園で 1ヘクタールの広さがあります。「春風馬堤曲」に詠われている毛馬の堤を再現し公園内には蕪村の13句を直筆の石碑にきざみ並べられています。
松尾芭蕉、小林一茶とともに近世俳諧史を代表する蕪村は 浪漫的、抒情的俳風を築き、生涯3000近くの句を読んだとされます。
13句は その代表作とも言え、その多くは ふるさと毛馬村を読んだ作品が連なっています。
公園を抜けて 大川沿いにさらに北上すると ついに目的地の 毛馬閘門が見えてきました。
毛馬閘門のレポートは 後にして 淀川の河川べりに立ってみますと そこには広大な河川公園が続いていました。
公園の風景を眺められる 道すがらにひっそりとあるのが
蕪村生誕地の石碑
享保元年(1716)、摂津国東成郡毛馬村に生まれた蕪村は 20歳の頃には 江戸に出て、夜半亭宋阿に師事し、俳諧を学びました。師の死にあって江戸を去り、27歳から下総国結城(茨木県結城市)を拠点に 憧れの松尾芭蕉の足跡を訪ねて東北を周遊します。
その後、蕪村は42歳ごろから 京に居を構え、画業に専念。45歳で結婚。55歳で師を継ぎ、夜半亭二世に推載されました。「春風馬堤曲」「澱河歌(でんがか)」「老鶯児(ろうおうじ)」の三部作を刊行したのが 62歳の頃でした。絶頂期を迎えた6年後 天明3年(1783)12月、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」の辞世の句を残し、68歳で亡くなりました。
今は河川べりになってしまった 蕪村の生まれ故郷の毛馬村ですが 彼は 毛馬村を出てから一度も毛馬に帰りませんでした。京からしばしば来阪したこともある蕪村でしたが そのまま毛馬に戻ることなく京に去ります。
「幼童之時、春色清和の日には、心友だちと、此堤のぼりて遊び候」と毛馬を懐かしむ手紙も残しています。
俳号の由来とされる 蕪村の 「蕪」は「蕪(あ)れた村」の蕪で 荒れ果てた毛馬村のことを指すのでは という説もあるそうです。とにかく蕪村にとっての毛馬村とは 帰れない事情をかかえた ふるさとだったのではないでしょうか。
新淀川開削と改修工事で計画がなされ、明治40年(1907)8月、普段の川の水を流すために「毛馬洗堰」と、水位が違う大川と新淀川の船舶の運行をスムーズに行うための「毛馬閘門」が完成しました。
閘門は船舶の行き来に重要な役割をつかさどり、水路の整備には長年の苦労がありました。
次回からは 毛馬閘門の歴史と 実際に旧閘門を訪ねた記事を載せますね。。¥^^
追伸:この度は 記事の更新が遅れていますが 少しずつ アップしていきますので お許しくださいね。。¥^^
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