四天王寺さんから天王寺七坂まで~逢坂~ [大阪市天王寺区]
四天王寺参拝を終えて 天王寺界隈の有名な坂を訪ねる旅に出かけます。
四天王寺さんから西へ歩くと谷町筋に ある会社が眼につきました。
金剛組
敏達7年(578)に四天王寺建立のため、聖徳太子が招いた3人の宮大工の一人、金剛重光によって創業されました。
推古15年(607)には我が国が誇る木造建築の最高峰・法隆寺を築きます。四天王寺は天災・戦火により7度焼失しましたが、再建の際には正大工として歴代の金剛組が務めました。
四天王寺の年賀儀式 大工職人による仕事始めでは「手斧(チョンナ)はじめ」(一般非公開)として、今なお金剛家代々の行事として受け継がれています。
秋季彼岸会ともあって 四天王寺界隈には沢山のお店が立ち並んでいます。
その中でも 古くからの佇まいを感じさせるお店があります。
浪速漬け 四天王寺 西むら
天王寺蕪、田辺大根、守口大根、大阪しろな、泉州なす、毛馬胡瓜など「なにわ伝統野菜」の漬物屋さんです。
昆布や塩にこだわって薄味に仕上げたお漬物は全国からリピーターが訪れるほどです。
聖徳太子が叡福寺を造営する際、法隆寺から持ち帰った里芋が発祥という石川早生(いしかわわせ)もありますよ。
谷町筋から 西に下ると 「逢坂」という急な坂に 出会います。
平安時代の頃には、坂の上り口にあたる現在の天王寺公園北口交差点あたりまで海であり、このあたりは「合法ヶ辻」と呼ばれ、のちの浄瑠璃『摂州合邦辻』の舞台ともなったそうです。
逢坂には 大きなお寺があります。
次回は ここ 一心寺を訪ねることにします。
一風変わった 仁王像もあります。。¥^^
四天王寺さんから西へ歩くと谷町筋に ある会社が眼につきました。
金剛組
敏達7年(578)に四天王寺建立のため、聖徳太子が招いた3人の宮大工の一人、金剛重光によって創業されました。
推古15年(607)には我が国が誇る木造建築の最高峰・法隆寺を築きます。四天王寺は天災・戦火により7度焼失しましたが、再建の際には正大工として歴代の金剛組が務めました。
四天王寺の年賀儀式 大工職人による仕事始めでは「手斧(チョンナ)はじめ」(一般非公開)として、今なお金剛家代々の行事として受け継がれています。
秋季彼岸会ともあって 四天王寺界隈には沢山のお店が立ち並んでいます。
その中でも 古くからの佇まいを感じさせるお店があります。
浪速漬け 四天王寺 西むら
天王寺蕪、田辺大根、守口大根、大阪しろな、泉州なす、毛馬胡瓜など「なにわ伝統野菜」の漬物屋さんです。
昆布や塩にこだわって薄味に仕上げたお漬物は全国からリピーターが訪れるほどです。
聖徳太子が叡福寺を造営する際、法隆寺から持ち帰った里芋が発祥という石川早生(いしかわわせ)もありますよ。
谷町筋から 西に下ると 「逢坂」という急な坂に 出会います。
平安時代の頃には、坂の上り口にあたる現在の天王寺公園北口交差点あたりまで海であり、このあたりは「合法ヶ辻」と呼ばれ、のちの浄瑠璃『摂州合邦辻』の舞台ともなったそうです。
逢坂には 大きなお寺があります。
次回は ここ 一心寺を訪ねることにします。
一風変わった 仁王像もあります。。¥^^
四天王寺巡り旅~総集編 [大阪市天王寺区]
四天王寺さんの参拝を終えて 太子信仰の町 伶人町から 天王寺七坂を巡る旅に出ます。
その前に 四天王寺巡りの旅をまとめて動画にしてみました。
ぜひ、ご覧くださいね。
大阪にもあった 清水の舞台も 訪ねますよ。。¥^^
タグ:四天王寺
四天王寺巡り③~六時礼讃堂から石鳥居まで [大阪市天王寺区]
四天王寺散策も最終回です。彼岸会はご先祖の供養に参る人で賑わいを見せています。
石舞台から眺めた六時礼讃堂です。
側面に彫られた「舞台講」とはこの舞台再建に寄進の労をとった大阪の材木問屋の集まり(講)の名称です。
四天王寺の境内中央に位置する雄大なお堂で、昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名がつきました。
入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めています。
境内には様々な信仰の寺が集まっています。親鸞上人の御堂もあります。
四天王寺本坊の門構えです。
英霊堂
明治39年建立。当時は大釣鐘堂と呼ばれ、世界一大きいとされた大梵鐘が釣られていましたが、その鐘も第二次大戦で供出され、その縁により戦後は戦歿英霊を奉祀しています。
大黒堂
ここの本尊は一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ”三面大黒天”。この姿からして福の神トリオとも言える仏様は、子孫繁栄・福徳智慧・商売繁盛などにご利益があるとされます。
いよいよ散策も最後。 西重門の西にある石鳥居に掲げられた扁額の文字は「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書いてあります。
これは『 おシャカさんが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である』の意です。この額は箕の形をしており<チリトリ>のように全ての願いをすくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を現しています。
この石鳥居から出て四天王寺 訪問は終わりです。足早な散策で 境内すべてを見てまわれませんでしたがいく度となく訪れたいと思います。
ご先祖様の供養と家内安泰を願って、また、ぜひ参拝しますね。
次回からは四天王寺をあとにして 夕陽丘界隈 「天王寺の七阪」を訪ねる散策です。
坂が 多くて くたびれましたが・・・
また、ご覧下さい。。¥^^
石舞台から眺めた六時礼讃堂です。
側面に彫られた「舞台講」とはこの舞台再建に寄進の労をとった大阪の材木問屋の集まり(講)の名称です。
四天王寺の境内中央に位置する雄大なお堂で、昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名がつきました。
入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めています。
境内には様々な信仰の寺が集まっています。親鸞上人の御堂もあります。
四天王寺本坊の門構えです。
英霊堂
明治39年建立。当時は大釣鐘堂と呼ばれ、世界一大きいとされた大梵鐘が釣られていましたが、その鐘も第二次大戦で供出され、その縁により戦後は戦歿英霊を奉祀しています。
大黒堂
ここの本尊は一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ”三面大黒天”。この姿からして福の神トリオとも言える仏様は、子孫繁栄・福徳智慧・商売繁盛などにご利益があるとされます。
いよいよ散策も最後。 西重門の西にある石鳥居に掲げられた扁額の文字は「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書いてあります。
これは『 おシャカさんが説法を説く所であり、ここが極楽の東門の中心である』の意です。この額は箕の形をしており<チリトリ>のように全ての願いをすくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を現しています。
この石鳥居から出て四天王寺 訪問は終わりです。足早な散策で 境内すべてを見てまわれませんでしたがいく度となく訪れたいと思います。
ご先祖様の供養と家内安泰を願って、また、ぜひ参拝しますね。
次回からは四天王寺をあとにして 夕陽丘界隈 「天王寺の七阪」を訪ねる散策です。
坂が 多くて くたびれましたが・・・
また、ご覧下さい。。¥^^
四天王寺巡り②~南鐘堂から亀井堂~~ [大阪市天王寺区]
四天王寺巡りを続けます。今回は動画も交えて紹介しますね。
正式名称は、鯨鐘楼といいます。鐘は盤渉調の名鐘で、聖徳太子の引入浄土の御誓願により、鐘楼から撞き送る響きは、はるか極楽浄土に通じるといわれます。春秋の彼岸会には鐘を撞して先祖供養をする人々が跡を絶ちません。
亀井堂の霊水は金堂の地下より、湧きいずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。
中央には、その昔聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されています。
六時礼讃堂を望む 亀の池です。まさしく亀が沢山 生息していました。
亀の池の上に架かっている石橋に組まれた舞台で、毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる聖霊会舞楽大法要の際には、古来よりの作法にのっとり舞台上で舞楽が舞われます。
さて、四天王寺境内を散策しながら 露天巡りなどしつつ、西門の方に向かいます。
西門あたりは 大変な賑わいでしたよ。。¥^^
正式名称は、鯨鐘楼といいます。鐘は盤渉調の名鐘で、聖徳太子の引入浄土の御誓願により、鐘楼から撞き送る響きは、はるか極楽浄土に通じるといわれます。春秋の彼岸会には鐘を撞して先祖供養をする人々が跡を絶ちません。
亀井堂の霊水は金堂の地下より、湧きいずる白石玉出の水であり、 回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。
中央には、その昔聖徳太子が井戸にお姿を映され、楊枝で自画像を描かれたという楊枝の御影が安置されています。
六時礼讃堂を望む 亀の池です。まさしく亀が沢山 生息していました。
亀の池の上に架かっている石橋に組まれた舞台で、毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる聖霊会舞楽大法要の際には、古来よりの作法にのっとり舞台上で舞楽が舞われます。
さて、四天王寺境内を散策しながら 露天巡りなどしつつ、西門の方に向かいます。
西門あたりは 大変な賑わいでしたよ。。¥^^
四天王寺巡り~南大門から五重の塔 [大阪市天王寺区]
四天王寺は、聖徳太子が建立した日本最古の官寺で、南大門の前には「日本佛法最初四天王寺」と彫り込んだ石柱が立っています。
中門は中心伽藍の南端、南大門の北に位置し、脇の間に伽藍の守護神である金剛力士 (仁王像)をまつっていることから俗に仁王門 と呼ばれています。
東側が那羅延金剛力士、西側が密迹金剛力士で、大仏師松久朋琳・宗琳両師の作であります。
どちらも 勇ましく 圧倒される迫力です。
四天王寺の伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって 中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本で最も古い建築様式です。
五重塔も 高くそびえ立っています。
その源流ともなる大陸様式を今に伝える貴重な建築となっています。
次回は 亀の池と 亀井堂あたりから 四天王寺境内を 散策します。。¥^^
中門は中心伽藍の南端、南大門の北に位置し、脇の間に伽藍の守護神である金剛力士 (仁王像)をまつっていることから俗に仁王門 と呼ばれています。
東側が那羅延金剛力士、西側が密迹金剛力士で、大仏師松久朋琳・宗琳両師の作であります。
どちらも 勇ましく 圧倒される迫力です。
四天王寺の伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって 中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本で最も古い建築様式です。
五重塔も 高くそびえ立っています。
その源流ともなる大陸様式を今に伝える貴重な建築となっています。
次回は 亀の池と 亀井堂あたりから 四天王寺境内を 散策します。。¥^^