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色づく木々のささやき

久しぶりに体調も良く 朝も早く起きられたので近くの公園にカメラを持って行きました。

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落ち葉の絨毯がしきつめられているようですね。

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公園の木陰でちょっと一服一休み。。

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すこし触っただけで落ちてしまいそうな葉っぱたち

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来週にはもっと絨毯の厚みが増えていることでしょう。

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大坂城の梅林~三分咲でした~中央区 [大阪市中央区]

今日は やっと寒さも和らぎ マフラーも外して 公園散歩に行ってきました。

まだまだ早いとは思ったのですが 大坂城の天守が見える梅林公園を訪れてみます。

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沢山の人が カメラ片手に梅の花に近づいて撮影してますが 如何せん花の数が足りません。

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ようやく蕾が膨らんでところどころ 花びらを見せている樹がある程度。

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そんな中 綺麗なのは白い花びらの梅でした。

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まだ三分咲といったところで 一週間後ぐらいが見頃ですかねえ。

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もう一度、訪れることにしましょう。。¥^^
タグ:大坂城

『難波大道』地蔵尊めぐりの町歩き 後編~寺田町から美章園まで~阿倍野区 [大阪市阿倍野区]

前回は 大阪環状線 寺田町駅から 「難波大道」を訪ねて 奈良街道へと抜けて生野商店街まで行きましたが反転引き返して、源ヶ橋まで戻り、西の方角に「猫間川」跡筋を歩いてみました。

源ヶ橋の交差点から少し南に下り、道路沿いにあるのが「源ヶ橋商店会」です。

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なんともレトロな公設市場といった感じで 表看板の「源」の字の「小」の字が欠けてるところがなんとも寂しい。

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商店街ではなく、商店会というところから かつては沢山のお店が加入していたひとつの組織だったのでしょう。

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今は営業しているお店も少なくなっていますが かつては大阪中からお客さんが集まってきて賑わっていたそうです。

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今は昼間でもシャッターの下りた店が多く、商店会の奥にあるスーパーマーケットにお客さんが集中していますね。

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かつてのお店の排気管でしょうか。

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たくさん積み上げられた ドラム缶の向には 猫間川筋が続いています。この辺はすっかり住宅地となっていまして、かつて川が流れていた面影はありませんね。

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少し行って 脇道に入っていくと 三叉路があり 薬局屋さんがあります。

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このへんはかつて、「ボテンショの池」と呼ばれた池があり、大正時代には埋め立てられましたが 傍らの三本松が残され、三本松の八平狸の祠(ほこら)と呼んで地元の人の信仰の対照となっていました。しかし、昭和初期には伐採されてしまったそうです。

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程なく行きますと またまた 地蔵尊が見えてきました。

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なにやら 開運と書いてある提灯を見ると たいそうご利益がありそうで、思わずお参りしてしまいます。

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JR大和路線の高架をくぐるとすぐに 立派な 地蔵尊が見えてきました。

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「八反田地蔵」

文政年間に天王寺村の人々が五穀豊穣、無病息災を願ってこの地に奉祀したのが始まりです。

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ご本尊は じつは阿弥陀如来様で古くは大坂夏の陣で亡くなった豊臣方の武士の霊を弔うために奉祀されたという説もあるんです。今では霊験アラタカな阿弥陀様と地蔵菩薩様をお参りするため 八月に盛大なお祭りが行なわれます。

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八反田地蔵から大通りにでて、陸橋を渡り天王寺町に入ります。

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将軍延命地蔵はほんとに 住宅地の真っ只中にありますよ。

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ここからさらに西に行くと 少し大きなお寺がありました。

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「法山時」は真宗大谷派の寺院で明治時代には大きなサボテンがあったのでサボテン寺とも言われていました。

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昭和20年(1945)3月13日の大阪大空襲の時、木像阿弥陀如来像、薬医門以外は消失してしまいました。
昭和25年(1950)に天王寺区伶人町から移転し、美しい本尊を納めています。ちなみに薬医門は病人の往来を妨げないために扉の無い門で、室町時代に寺院と医師の家に使われたそうです。

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さて、もうすぐ目的地の美章園まであと少しです。

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近鉄電車の高架に「美章園駅」の看板が見えてきました。

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近鉄 河堀口駅付近の様子ですが・・・

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河堀口(こぼれぐち)は平安の時代 和気清麻呂が桓武天皇の命を受けて氾濫が多かった大和川の付け替え工事をした跡だと言われています。延べ23万人を投じた巨大プロジェクトにもかかわらず資金が続かず失敗しました。茶臼山の海底湖や谷町筋の堀越神社前の窪地はその跡だといわれています。

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さらに 美章園まで高架下の道を行きます。

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昔ながらのお茶屋さんがあったりして・・・

やがて美章園商店街に進みますと ひとつのお店が目につきました。

「野根まんぢう」

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かつて幕末の時代、坂本龍馬や中岡慎太郎たちが上洛するおりに、街道筋にある野根を通り宿場の茶店で味わったと言われる饅頭です。土佐名物「野根まんぢう」参勤交代のおりに土佐藩主・山内容堂も食したといわれます。

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大正7年創業の福田屋さんは高知県安芸郡野根から昭和63年に阿倍野に移転し、老舗の味を守り続けています。

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最後に美章園駅の近くにある 小さな祠です。

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昭和20年(1945)2月14日に阪和線美章園駅に落下した1トン爆弾は橋脚を破壊し付近の住民をもまきぞいにし、死傷者30名という被害が出ました。

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当時の駅職員たちの手で昭和26年(1951)8月24日供養の碑が建てられました。

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ついに美章園までたどり着きましたね。

たった一駅といえども いろんな場所があって面白かったです。

もっと突き詰めて 見ておけば良かったかなと思いましたが この程度の町歩きでは十分でしょう。

次回はどこに行こうかと 思いめぐらすのも 楽しいひと時です。

ちなみに 次回は大阪天満宮あたりに出没しますよ。こぐまね は。。¥^ー^

『難波大道』地蔵尊めぐりの町歩き 前編~寺田町から美章園まで~阿倍野区 [大阪市阿倍野区]

難波大道という古代の街道は大阪市内から堺市にかけて建設された道路。「日本書紀」によると推古21年(613)、「難波から京に至るまでに大道を置く」とされている。

この道の一部が難波大道だと考えられ、難波宮から飛鳥に至る道が架けられていたのです。その大道の道筋にある町が寺田町・河堀口・美章園。

難波大道から奈良街道、田辺街道など、歴史のある街道交差点から地蔵尊を巡る町歩きです。

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寺田町という駅名は、その昔、この地一帯が四天王寺の寺田(じでん)であったことからつけられたんですね。

寺田町から一直線に北上すると難波宮に到達します。

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天武天皇によって難波と大和を結ぶ最も重要な道に関を設け、難波宮の南端に城壁を巡らしたとあります。

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昭和55年(1980)に大和川・今池遺跡で全長170メートルに渡って直進する古代の道路跡が発掘され、堺市常盤町でも下水処理の新設工事中に幅18メートルの道路遺構が見つかりました。

直新北上すると難波宮に到達することや、出土品もほぼ同時代のものであることから難波大道の遺跡であれと思われます。

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寺田町南商店街を南方向に行く道は江戸時代に大坂から高野詣での近道として利用されていた下高野街道です。四天王寺から寺田町を経て、田辺~天美(松原)~八下(堺市)~岩室(大阪狭山市)に続き、西高野街道と合流します。田辺につながる街道でもあるこの道は「田辺街道」とも呼ばれています。

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道すがら見つけたアートなオブジェかと思いきや、単なる廃墟となったスナック跡。

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さらに 寺田町を歩くこと南に行きます。この道は奈良街道と呼ばれています。

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大阪と奈良を結ぶ奈良街道の一部であり、竜田大社付近を通ることから「竜田奈良街道」と称されることも。
飛鳥時代には、難波津・四天王寺と斑鳩・法隆寺を結ぶ街道として整備され、聖徳太子も通ったことがあるそうです。

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「生野地蔵尊」は摂津国東成郡生玉ノ庄、毘沙門池に埋もれていたお像を明治になって、ここらの村人が安置し地蔵堂を建てたのが始まりとされます。

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これまた斬新な建物。らせん状のオレンジの作りが目を奪いましたが、パチンコ屋さんですね。

奈良街道から少し民家の密集しているところに入っていくと、またもや地蔵尊が・・・

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「黄金地地蔵尊」は大正9年(1920)に平野街道筋に住んでいた仏師・吉本久三郎氏が木造一刀彫の地蔵菩薩を祀ったのが始まり。かつては もう少し西寄りの字黄金地にあったとされます。

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さてさてさらに道を進むと大通りに出てきます。

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ここの地名、「源ヶ橋」は旧猫間川にかけられた橋の名残で、初代源ヶ橋は摂津の国では最も古い橋のひとつです。延歴年間(782~806)には架けられていたといわれ、近世になってからの源ヶ橋は木造の欄干橋だったそうです。昭和5年(1930)猫間川が暗渠となってからは、いつのまにか橋が撤去されてしましました。

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猫間川は古文献、古地図にも記載され、古くは自然流の川でしたが現在は暗渠下しています。かつては阿倍野区桃が池あたりの溜池・用水の水を天王寺を通って源ヶ橋付近から上町台地東側沿いに大阪城西側へ。
猫間川の名の由来は「このあたりが猫間家の所領であったから」という説があります。昭和になって市街化が進み下水は地下に埋められ昭和32年(1957)には暗渠工事が完成しました。

「八丁堀」なんてこのあたりに因んでの名前?単に 必殺シリーズが好きなだけ?

大通りから斜め南に商店街が続いていますね。

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「生野商店街」は源ヶ橋から生野八坂神社までの東西約1キロに及ぶアーケード商店街です。昭和初期に開業した大阪市設生野公設市場が前身で、地域の人にとても愛されている商店街です。

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商店街の中ほどに 古風な建物を見つけましたよ。

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タイル張りの壁といい、屋根の上の「自由の女神」像といい、なんとも変わった建物です。
ここは昭和12年(1937)に完成した「源ヶ橋温泉」です。平成10年(1998)には銭湯建築として初めて国の登録有形文化財に指定されました。屋根の上の自由の女神像は「ニューヨーク」と「入浴(にゅうよく)」をひっかけて洒落ているのだそうですよ。

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かつての「源ヶ橋」の欄干の面影を模した石柱の看板が立っておりました。

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商店街のあちらこちらに かつて華やかりし頃の商店街の名残りがあります。

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そんな商店街の奥まった所にあった地蔵尊がこちら。「沖美地蔵」です。
そのむかし このあたりに渡し守で源兵衛という男がおりました。じつは渡し守は仮の姿で 通りがかりの者を殺しては金品を強奪する盗賊でした。あるとき、いつものように旅人を殺して金品を奪おうとしたところ この者が長年探していた実の息子であることが分かり、深く悲しみました。後悔した源兵衛は出家し有源上人となって貯めていた悪銭を罪滅ぼしのためと 猫間川で水難した人の供養にと地蔵尊を建てました。

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さて 再び源ヶ橋交差点付近まで戻り、道路反対側の方向に行きます。

町歩きの後半は河堀口を訪ねながら 街道名物に 舌鼓をうちます。かつて 坂本龍馬も食べたといわれる名物とは いかなるものでしょう。

次回を お楽しみに~~。。¥^^

春節祭に行ってきたよ ②~神戸 南京町 [兵庫県]

神戸の南京町の春節祭の様子の続きです。

お腹が空いてきたので 数ある中華飯店の中で今日は「一味軒」でお食事です。

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タンメンと焼き飯に唐揚げが付いたサービスランチ。とろみのあるスープに小エビが乗った麺に、焼飯にはレタスが入ってサクサクです。唐揚げは普通でした。

お腹も満足、いよいよ南京町広場で獅子舞の踊りを見ます。

でもこのとおり、すごい人出でしたよ。

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ここは 動画で見てもらったほうが実感が湧くでしょう。



最後は「臥龍殿」(がりょうでん)

なんと目を疑うような トイレです・・・

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南京町の春節祭は明日まで。一度は行ってみてください。きっと中国文化に触れることが出来ますよ。

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