春節祭に行ってきたよ ①~神戸 南京町 [兵庫県]
兵庫県神戸市に実際に南京町という住所は見つかりません。
なぜなら神戸の人たちが、チャイナタウンに付けた呼び名だから・・・
神戸港が世界に扉を開いたとき北野の異人館通りに近く、海に近い居留地に隣接する地区に中国人が移り住みくらしを支えるマーケットを創ったのです。
旧暦で節句を祝う中国では 1月23日から旧暦のお正月を祝う「春節」が盛大におこなわれます。
ここ南京町でも昭和62年(1987)から「春節祭」を開催して 爆竹を鳴らし、獅子舞が舞って 華やかにお祝いします。
平成24年(2012)は26年目 24回目(昭和天皇崩御の年と阪神淡路大震災の年は中止) の開催となります。
さっそく 南京町の春節祭に行ってきました。
南京町散策の続きは下の方をクリックしてね。。¥^^
東福寺訪問~京都の冬の旅 [京都府]
ようやく正月気分もぬけて 仕事も忙しく、すっかりブログともご無沙汰でした。
今日から ブログ再開です。
ふさしぶりに京都に行ってきました。何気なく朝起きたら天気も良かったので ぶらりと京阪電車に乗って思いつきで行きましたので あまりいろんなところを 紹介できませんが 少し写真も撮ってきましたので・・・・
東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院です。
中門から入ると正面に「日下門」があります。ここをくぐると 広大な境内が目の当たりにされます。
実は東福寺は紅葉の名所として有名で、秋に訪れたかったのですが機会がなく こんな真冬になってしましました。
摂政・九条道家が嘉禎2年(1236)に祖父の菩提寺として建てられたお寺で 嘉禎元年(1235)34歳で宋に渡り,在宋6年,杭州径山の無準の法を嗣ぎ,仁治2年(1241)7月に帰朝した 聖一国師を開山として、実に19年もの歳月を費やし造営されたそうです。
京都五山のひとつで、臨済宗東福寺派の大本山として、奈良の「東大寺」のように大きく、「興福寺」のように盛大を極めた寺にとなるよう、それぞれ東と福の字を取り「東福寺」と命名されたということです。
特に有名なのは、堂々とした大仏様(天竺様)、禅宗様(唐様)、和様を組み合わせた造りの日本最古最大の大楼門である 『三門』です。
現在の三門は、応永年間(1394~1428年)に足利義持によって再建されたものだそうで、三門とは空門・無相門・無作門の三解脱門を意味するらしい。
仏教学には全く疎くて なんのことかは わかりませんがとにかく大きい門構えでした。
真下から 見上げるほどに 圧倒される 迫力です。
本堂(仏殿)も立派なもので 1881(明治14)年焼失したとはいえ、1934(昭和9)年再建されました。起工から竣工まで17年を要し復興させた昭和の木造建築中最大の建物です。
次に訪れたのは 本坊より塔頭、龍吟・即宗両院に至る三ノ橋渓谷に架かる『偃月橋』 と呼ばれる木造橋廊です。桁行十一間、梁間一間、単層切妻造の屋根は桟瓦葺。下流の通天・臥雲両橋とともに東福寺三名橋と呼ばれています。
橋の上からは 紅葉が過ぎ去った 冬景色が眺められます。
最後に ご紹介は『禅堂』で、別称、僧堂、選佛場ともいう座禅専修の道場です。1347(貞和3)年再建された建物で 中世期より現存する最大最古の禅堂であります。
まこと これらの歴史的価値があり かつ文化的にも趣ある建築物が 沢山あって とても 半日どころか 一日かけても 全部はまわれません。
来年はもっと早い時期に 『通天橋』の紅葉を楽しみに訪れたいです。
足早で申し訳ありませんが 次の 予定が入ったので 市内に向かって歩き始めます。。¥^^
今日から ブログ再開です。
ふさしぶりに京都に行ってきました。何気なく朝起きたら天気も良かったので ぶらりと京阪電車に乗って思いつきで行きましたので あまりいろんなところを 紹介できませんが 少し写真も撮ってきましたので・・・・
東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町十五丁目にある臨済宗東福寺派大本山の寺院です。
中門から入ると正面に「日下門」があります。ここをくぐると 広大な境内が目の当たりにされます。
実は東福寺は紅葉の名所として有名で、秋に訪れたかったのですが機会がなく こんな真冬になってしましました。
摂政・九条道家が嘉禎2年(1236)に祖父の菩提寺として建てられたお寺で 嘉禎元年(1235)34歳で宋に渡り,在宋6年,杭州径山の無準の法を嗣ぎ,仁治2年(1241)7月に帰朝した 聖一国師を開山として、実に19年もの歳月を費やし造営されたそうです。
京都五山のひとつで、臨済宗東福寺派の大本山として、奈良の「東大寺」のように大きく、「興福寺」のように盛大を極めた寺にとなるよう、それぞれ東と福の字を取り「東福寺」と命名されたということです。
特に有名なのは、堂々とした大仏様(天竺様)、禅宗様(唐様)、和様を組み合わせた造りの日本最古最大の大楼門である 『三門』です。
現在の三門は、応永年間(1394~1428年)に足利義持によって再建されたものだそうで、三門とは空門・無相門・無作門の三解脱門を意味するらしい。
仏教学には全く疎くて なんのことかは わかりませんがとにかく大きい門構えでした。
真下から 見上げるほどに 圧倒される 迫力です。
本堂(仏殿)も立派なもので 1881(明治14)年焼失したとはいえ、1934(昭和9)年再建されました。起工から竣工まで17年を要し復興させた昭和の木造建築中最大の建物です。
次に訪れたのは 本坊より塔頭、龍吟・即宗両院に至る三ノ橋渓谷に架かる『偃月橋』 と呼ばれる木造橋廊です。桁行十一間、梁間一間、単層切妻造の屋根は桟瓦葺。下流の通天・臥雲両橋とともに東福寺三名橋と呼ばれています。
橋の上からは 紅葉が過ぎ去った 冬景色が眺められます。
最後に ご紹介は『禅堂』で、別称、僧堂、選佛場ともいう座禅専修の道場です。1347(貞和3)年再建された建物で 中世期より現存する最大最古の禅堂であります。
まこと これらの歴史的価値があり かつ文化的にも趣ある建築物が 沢山あって とても 半日どころか 一日かけても 全部はまわれません。
来年はもっと早い時期に 『通天橋』の紅葉を楽しみに訪れたいです。
足早で申し訳ありませんが 次の 予定が入ったので 市内に向かって歩き始めます。。¥^^
梅田スノーマンフェスティバル [大阪市北区]
JR大阪駅のノースゲートビルに巨大な雪だるまが出現しています。
まずは新しくなった大阪駅舎の大屋根を眺めながら 時空の広場を目指します。
実に高い屋根が 大阪駅全体をつつみこんでいますね
エスカレーターをあがっていくと 広場にでます。
「時空の広場」
大きな時計がシンボルとなって 駅の利用者の目に留まります。
さて、再びエスカレーターに乗って 下のもうひとつの広場に行きます。
見えてきたのは スノーマン!
そうです スノーマンフェスティバルの雪だるまだ~~~
梅田北ヤード開発は まだまだ進行中ですね
梅田スノーマンフェスティバルは12月25日のクリスマスまでですので お早めに
大阪駅周辺のいたるところにも 幸せの雪だるまが出現してるそうですよ。。¥^^
まずは新しくなった大阪駅舎の大屋根を眺めながら 時空の広場を目指します。
実に高い屋根が 大阪駅全体をつつみこんでいますね
エスカレーターをあがっていくと 広場にでます。
「時空の広場」
大きな時計がシンボルとなって 駅の利用者の目に留まります。
さて、再びエスカレーターに乗って 下のもうひとつの広場に行きます。
見えてきたのは スノーマン!
そうです スノーマンフェスティバルの雪だるまだ~~~
梅田北ヤード開発は まだまだ進行中ですね
梅田スノーマンフェスティバルは12月25日のクリスマスまでですので お早めに
大阪駅周辺のいたるところにも 幸せの雪だるまが出現してるそうですよ。。¥^^
毛馬のこうもんを目指して ⑤ ~動く毛馬閘門 [大阪市都島区]
毛馬閘門の紹介も最終回です。かつて蕪村の故郷でもあった毛馬村に新旧淀川が出会う、毛馬閘門ができて大阪の町は水の都として今日を築いています。
明治18年(1885)の大洪水で大阪は北摂、中河内郡、大阪市街の約15,000ヘクタール、約7万戸に甚大な被害がもたらされ被災人口は27万人にも及んだそうです。この惨状を見て立ち上がったのが淀川改修運動の旗手となった大橋房太郎であります。彼によって淀川改修の必要性が時の政治を動かし、明治29年(1896)淀川改修法案が可決されました。この時、房太郎は「淀川万歳!」と叫んだそうです。
そうして、いよいよ日本初となる近代的治水工事が始まります。これまでのような外国人に頼った工事ではなく、フランスに留学し近代土木建築技術を学んだ沖野忠雄が設計をして工事を進めました。
旧淀川、中津川、神崎川とわかれて蛇行していた淀川の下流をひとつの流れにするという大プロジェクトでした。日本初の大型土木機械が導入され、技術者を海外に派遣して、様々な試みがなされ、携わった労働者はやく800万人といわれています。
こうして明治40年(1907)に最初の毛馬閘門が完成したのです。
さて今回は 毛馬閘門訪問の最終回ですので 実際に現在の毛馬閘門がどんな風になっているのかを紹介しますね。
まずは 毛馬閘門の警告アナウンスが流れ、閘門のゲートの機械が作動するところから始まりです。
いよいよゲートが上がってきます。閘門内には船舶が待機していますよ。
ゲートが完全に上がりきるまでは だいぶ時間がかかるものです。
ついに船のエンジンがかかり、閘門を通り過ぎゲートをくぐって、大川に抜けて行きました。
なかなかの迫力でしたね。今回偶然にも毛馬閘門を通過する船舶に出会うことができました。
淀川河川に安泰をもたらし、大阪市民の安全をまかなっている毛馬閘門の重要性はますます増してくることでしょう。
数回に分けてお送りしてきた毛馬閘門を訪ねる旅は 今回で終わりますが これからも淀川、大川の水の流れをいつまでも忘れないようにします。
ここまで いつもご覧いただき ありがとうございました。
また、次回の更新で お会いしましょう。。¥^^
PS:更新が遅れがちですが 記事のアップは少しずつしておりますので ご容赦下さい。
明治18年(1885)の大洪水で大阪は北摂、中河内郡、大阪市街の約15,000ヘクタール、約7万戸に甚大な被害がもたらされ被災人口は27万人にも及んだそうです。この惨状を見て立ち上がったのが淀川改修運動の旗手となった大橋房太郎であります。彼によって淀川改修の必要性が時の政治を動かし、明治29年(1896)淀川改修法案が可決されました。この時、房太郎は「淀川万歳!」と叫んだそうです。
そうして、いよいよ日本初となる近代的治水工事が始まります。これまでのような外国人に頼った工事ではなく、フランスに留学し近代土木建築技術を学んだ沖野忠雄が設計をして工事を進めました。
旧淀川、中津川、神崎川とわかれて蛇行していた淀川の下流をひとつの流れにするという大プロジェクトでした。日本初の大型土木機械が導入され、技術者を海外に派遣して、様々な試みがなされ、携わった労働者はやく800万人といわれています。
こうして明治40年(1907)に最初の毛馬閘門が完成したのです。
さて今回は 毛馬閘門訪問の最終回ですので 実際に現在の毛馬閘門がどんな風になっているのかを紹介しますね。
まずは 毛馬閘門の警告アナウンスが流れ、閘門のゲートの機械が作動するところから始まりです。
いよいよゲートが上がってきます。閘門内には船舶が待機していますよ。
ゲートが完全に上がりきるまでは だいぶ時間がかかるものです。
ついに船のエンジンがかかり、閘門を通り過ぎゲートをくぐって、大川に抜けて行きました。
なかなかの迫力でしたね。今回偶然にも毛馬閘門を通過する船舶に出会うことができました。
淀川河川に安泰をもたらし、大阪市民の安全をまかなっている毛馬閘門の重要性はますます増してくることでしょう。
数回に分けてお送りしてきた毛馬閘門を訪ねる旅は 今回で終わりますが これからも淀川、大川の水の流れをいつまでも忘れないようにします。
ここまで いつもご覧いただき ありがとうございました。
また、次回の更新で お会いしましょう。。¥^^
PS:更新が遅れがちですが 記事のアップは少しずつしておりますので ご容赦下さい。